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駱駝のうぶごえ

第一話 多摩の礎(1973年)

第一節 新橋の嵐

 昭和48年の冬。東京・新橋の路地裏には、夕暮れとともに冷たい木枯らしが吹き抜けていた。大通りの賑やかな喧騒から完全に遮断された静かな一角に、黒塗りのハイヤーが音もなく滑り込んでは、重厚なコートをまとった紳士たちを次々と吐き出していく。彼らが吸い込まれていくのは、数々の歴史的妥協や、政界の密議が行われてきた格調高い老舗料亭「橘」であった。

 畳が青々と香る広大な大座敷。床の間には見事な掛け軸が飾られ、室内には上質な白檀の香りと、出席者たちが燻らす高級煙草の紫煙が静かに漂っている。座卓を囲むのは、いずれも戦後日本の復興と、奇跡的な高度経済成長を牽引してきた、政財界の恐るべき長老たちだった。平均年齢は70歳を超えている。彼らの顔には、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた者だけが持つ、彫刻のように硬い威厳が刻まれていた。

 その重苦しい沈黙のなかに、当時43歳の安田龍之介は、少しも臆することなく、仕立ての良いスリーピースのスーツの背筋を凛と伸ばして座っていた。どこか人懐っこく、しかし底知れない知性の光を湛えた瞳で、龍之介は長老たちを一人一人見回し、あっけらかんとした笑みを浮かべた。

 「皆さん、そんなに眉間に皺を寄せないでください。せっかくの美味しいお酒が台無しになってしまいます。私は何も、皆さんからお金を巻き上げようというわけではありませんからね」

 龍之介の軽妙な言葉に、座敷のあちこちから、呆れたような、あるいは値踏みするような低い咳払いが漏れた。

 その様子を、部屋の隅で誰よりも緊張しながら見つめ、甲斐甲斐しく立ち働いていたのが、高橋信介(27歳)だった。信介は安田証券に入社して四年が経過しており、龍之介がその実直さを気に入って強引に自分の私設秘書に抜擢した。

 信介は慣れた手つきで長老たちのグラスに新しい酒を注いで回りながら、手元の風呂敷から、ずっしりと重い最高級の革表紙で作られたファイルを丁寧に取り出した。そして、出席した長老たち一人一人の前に、音を立てずに静かに配り始めた。

 「……安田君、これは一体何の真似かね」

 長老の一人が、手元に置かれたファイルに視線を落とし、不機嫌そうに尋ねた。ファイルの表紙には、金箔押しで、不釣り合いなほど愛らしい一頭の「駱駝」のマークがあしらわれていた。

 第二節 不釣り合いな夢と多摩の土地

 「私の生涯をかけた、および安田の家名にかけて成し遂げる事業の計画書です」

 龍之介は、いたずらっぽく微笑みながら答えた。

 「一切の費用を国に頼らず、すべての学費を完全無料とし、さらに全寮制で日本を背負う子供たちを育てる私塾——『安田学園(のちの駱駝学園)』。私はこれを、東京都多摩市に造りたいのです」

 龍之介の口から飛び出したあまりに浮世離れした言葉に、座敷は一瞬、水を打ったように静まり返った。長老たちは、配られた計画書をめくりながら、怪訝そうに眉をひそめた。

 「多摩の土地だと? あそこは確か、旧日本軍が戦時中に使用していた広大な軍用地の払い下げ跡地で、現在は国が所有したまま塩漬けになっているはずだ。なぜそんな場所に、一介の私塾を建てる必要があるのか。それに、一介の私塾にしては、あまりに広大すぎる敷地ではないか」

 「その通りです。だからこそ、国から私にあの土地を払い下げていただきたい。そのための便宜を、どうか皆さんの力で図っていただきたいのです」

 龍之介は身を乗り出し、熱弁を振るい始めた。

 「資金の心配は全くご無用です。安田財閥が明治時代から築き上げてきた莫大な資産。そのすべてを、私はこの学園の建設と運営に投じる覚悟です。幸いにして、私には有り余る富がある。しかし、あの世にお金は持っていけませんからね。ならば、日本国の未来のためにすべてを使い切ってしまおうというのが、私の冷徹な決意です。国からの補助金は一円も受け取りません。国の干渉を受けず、純粋に本物の人間を育てるためです」

 「正気か、龍之介君!」

 一人の財界の重鎮が、座卓を軽く叩いて声を荒らげた。

 「安田の莫大な遺産を、そんな素性の知れない子供たちのための無料の学校に注ぎ込むなど、道楽が過ぎる。国が所有する土地を払い下げるには、それ相応の公益性と大義名分が必要だ。ただの個人事業に、国の大事な土地を渡すわけにはいかん」

 「そうです。私財を投げ打つなどと言えば聞こえはいいが、一歩間違えれば安田の家名に泥を塗る。払い下げを行うに値する、国を納得させるだけの大義名分がどこにあるのかね」

 否定的な意見が次々と噴出し、座敷の空気は一気に険悪なものへと変わっていった。若い秘書である信介は、その張り詰めた空気の中でも表情を変えず、静かに次の給仕の手配を整えていたが、その背中には緊迫した汗がにじんでいた。

第三節 安田の徳と綾小路の裁定

 その時だった。座敷の最も上座、最も薄暗い床の間を背にして、それまで彫像のように目を閉じ、微動だにしなかった老人が、ゆっくりと煙管を灰皿に叩きつけた。

 コン、と乾いた音が響く。それだけで、騒がしかった長老たちの口が一斉に閉ざされた。老人の名は、綾小路孝之。当時の与党の大物政治家であり、戦後日本の政治の裏舞台を支配する、文字通りの「キングメーカー」であった。

 綾小路は深く刻まれた顔の皺を揺らし、その鋭い、すべてを見透かすような眼差しを龍之介に向けた。

 「……皆、少し騒がしいな。安田の若者をなじるのは、それまでにしなさい」

 綾小路が静かに語り出すと、左右の長老たちは気まずそうに視線を泳がせた。

 「…龍之介君。君のその目は、本気かね」

 「もちろんです、綾小路先生」

 龍之介は初めて笑みを消し、綾小路の目を真っ直ぐに見つめ返した。

 「私は安田のすべての富と、私の命をこの事業に賭けています」

 綾小路は、龍之介の若い、しかし一切のブレのない瞳をじっと見つめ、ふっと微かに口元を緩めた。

 「お前たちは、安田の血筋がこの日本に対して行ってきた歴史的な協力を忘れたのか。明治の世、日露戦争の瀬戸際において、国費が底を突いた時に外債を引き受け、国を破滅から救ったのは誰だ。関東大震災の直後、焦土と化した東京で、被災した何万人もの同胞に、無償で食料と物資を配り続けたのはどこの誰だ」

 綾小路の問いに、誰も答えることはできなかった。

 「安田の家系はな、国が最も困窮し、危機に瀕している時にこそ、己の利を顧みず、国に尽くしてきた。真に『徳』を持った稀有な家柄なのだ。その末裔である龍之介君が、私欲のためではなく、日本国の将来のためにすべての遺産を使い切ると言っている。それをただの道楽と切り捨てるのは、あまりに無知が過ぎるのではないかね。私欲なき純粋な志こそ、最大の大義名分ではないか」

 綾小路の静かで重みのある言葉に、周囲の長老たちは顔を見合わせ、言葉を失った。

第四節 背骨を失う国への危機感

 綾小路は、手元の煙草に火をつけ、静かに煙を吐き出した。

 「さらに言えば、」

 綾小路は龍之介を指し示した。

 「今の日本はどうだ。一見、池田内閣の所得倍増計画で景気は良く、豊かになっているように見える。だが、若者たちの間には不穏な空気が流れている。安ポ闘争の傷跡は深く、成田空港の建設を巡る反対運動や、学生たちによる社会騒乱の不穏な影が、すぐそこまで迫っている。彼らの多くは、甘い左翼思想に毒され、既存の秩序を壊すことばかりを考えている。国を本当に愛し、護るという『背骨』を持った若者が、このままではいなくなってしまう。私は、この世相に対して強い危機感を持っている」

 綾小路の言葉に、長老たちは一様に深く頷いた。高度経済成長の光の裏に潜む、精神的な退廃と社会の混乱。それは政財界の誰もが共通して抱く、言葉にできない恐怖だった。

 「国に頼らず、私たちが自らの手で、この国を真に強く、そして他者を包み込む優しさを持った、本物の日本国へと育てる。龍之介君の言う学園の設立趣旨は、まさにこの危機の時代に、我々が必要としているものではないかね」

 その言葉には、ただの政治的な便宜供与を超えた、国の未来を憂う一人の先達としての、魂の共鳴があった。

 龍之介は深く頭を下げた。

 「綾小路先生。私は、多摩のあの地に、最先端の校舎と、子供たちが健やかに育つための最高の環境を造ります。彼らに日本民族の誇りと、国を護る使命を植え付け、あらゆる分野において『超一流』の英才に育て上げてみせます。彼らはいつか、この国を裏から支える『見えない守護者』となるはずです」

 「見えない守護者、か。良い言葉だ」

 綾小路は満足そうに深く頷き、紫煙を燻らせた。

 「安田の若き駱駝に、未来を賭けてみようじゃないか。多摩の土地の払い下げの件は、私が責任を持って政府に話を通す」

 綾小路の力強い後押しが、座敷の空気を決定づけた。彼が龍之介の計画に賛成の意を示すと、それまで反対していた長老たちも、一人、また一人と態度を軟化させ、払い下げに賛成する意見が大勢を占めるようになった。

第五節 下された許可

 龍之介は、その劇的な変化を静かに見守りながら、胸の内で深く息を吐いた。隣に控える若き秘書の信介も、表情こそ崩さなかったが、その安堵は隣にいる龍之介にしっかりと伝わってきた。

 「皆さん、感謝します」

 龍之介は、座卓の上に両手を置き、深々と頭を下げた。

 「私はただ、この国が本当に豊かで、美しく、強いままであってほしいだけなのです。多摩の広大な敷地に、最高の学び舎を築き、未来の守護者を育ててみせます」

 この料亭での会合から、翌年の1974年。綾小路孝之の多大なる尽力と応援が力となり、国より東京都多摩市の旧日本軍用地の払い下げ許可が、正式に下りたのである。

 周囲からは「一介の私塾にはあまりに広大すぎる土地だ」との声もあったが、それは安田龍之介が将来にかける、冷徹なまでの情熱と圧倒的な意気込みを社会に示す、最初にして最大の強固な足がかりとなった。

 こうして、激動の昭和の裏側で、のちに国家の基盤を支えることになる「安田学園(のちの駱駝学園)」は、多摩の地でその産声を上げるための強固な礎を、確かに築いたのである。

 —

第二話 多摩の開学式

第一節 未完成の巨大要塞

 昭和52年の十月。東京都多摩市のなだらかな丘陵地帯には、早くも冬の訪れを予感させる冷ややかな秋風が吹き抜けていた。かつて旧日本軍が使用していたという広大な軍用地の払い下げ跡地は、周囲を鬱蒼とした雑木林に囲まれ、外の世界の狂乱から遮断された静かな砦のように佇んでいた。

 その広大な敷地の中央に、突如として出現した近代建築の群れがあった。まだコンクリートの匂いが漂う、頑強な3階建てのコンクリート校舎。そしてその奥にそびえ立つ、最大500名の学園生が共同生活を送るための巨大な学生寮と、重厚な梁で組まれた広々とした体育館。敷地内には、世界中から招く超一流の講師陣や外来者をいつでも温かく迎えるためのゲストハウスが佇んでおり、その一角には安田家専用の私的な部屋も確保されていた。そして何より圧倒的な存在感を放っていたのは、どこまでも青々と広がる全面芝生の運動場と、秋の澄んだ空を鏡のように映し出す本格的な50メートルプールだった。

 「お父様、あっちのプールの端っこに、職人さんたちの足場がまだ残っているよ」

 当時17歳になる安田丈一郎は、仕立ての良いダッフルコートのポケットに手を突っ込みながら、父である安田龍之介の顔を見上げた。十月の澄み切った陽光の中で、一部の施設はまだ工事の槌音が響く「一部未完成」の状態だったが、それでも開学の準備は整っていた。

 「ははは、よく気づいたね、丈一郎。だがね、これもまた良ささ。未完成だからこそ、これからここに集まる子供たちと一緒に、この学び舎を創り上げていく実感が持てるじゃないか」

安田龍之介は、いたずらっぽく笑いながら、すでに自分と背丈が変わらなくなった息子の肩をぽんと叩いた。

 丈一郎はまだ正式な学園生ではなかったが、父に連れられて一週間に二〜三日はこの多摩の施設にやってきては、ゲストハウスの安田家の部屋で生活を共にしていた。だから、誰もいないこの巨大なコンクリートの要塞が、彼にとってはすでに慣れ親しんだもう一つの家であり、巨大な遊び場でもあった。

 しかし今日ばかりは、いつもの静けさはなかった。敷地の外には、取材に訪れたマスコミのカメラマンたちがそわそわと機材をセッティングしており、ピカピカに磨き上げられたハイヤーが、多摩の急な坂道を次々と登ってきていた。

 「信介、子供たちのバスはそろそろ到着するかな?」

 龍之介が振り返ると、傍らに控えた私設秘書の高橋信介が、手元の分厚いスケジュール帳を見ながら実直に一礼した。信介は、安田証券を経て龍之介の右腕となってからすでに数年が経ち、その仕事ぶりは完全に信頼されていた。

 「はい、龍之介先生。東京の安田ホールディングス本社前を出発したバスが、まもなくこの多摩の正門へと到着する予定です」

 「そうか。いよいよだね」

 龍之介は遠く、なだらかな丘の先を見つめた。その瞳には、かつて新橋の料亭で綾小路孝之と交わした、国家の未来を担う本物のエリートを育てるという不退転の決意が、静かに、しかし熱く宿っていた。

第二節 30名の小さな駱駝たち

 多摩の正門をくぐり、大型の送迎バスがゆっくりと全面芝生の運動場の脇に停車した。プシューという排気音とともに扉が開くと、中から所在なさそうに、お互いの顔を見合わせながら子供たちが降りてきた。

 今回の第一期生として集まったのは、全員が六歳から七歳の、総勢30名の子供たちだった。彼らは、関東と大阪を中心に、全員が経済的に恵まれない環境で育った子供たちだった。親を亡くした孤児や、シングルマザーの家庭で育ち、日々の暮らしに追われて十分な教育を受けられずにいた子供たち。しかし、その誰もが、安田財閥が誇る東京と大阪の緻密なネットワークを通じて、「磨けば必ず世界に通用する、天賦の光る才能を持つ子供たち」として見出され、推薦されてきた天才の卵たちだった。

 まだ小さな身体には少しばかりブカブカな、安田学園の真新しい紺色の制服。子供たちは、見たこともないほど巨大なコンクリートの校舎や、広大な青い芝生を前に、完全に圧倒されていた。ある者は不安げに自分の服の裾をいじり、ある者は隣に立つ子供の袖をきゅっと握りしめていた。親元から完全に離れ、この見知らぬ多摩の丘で共同生活を送ることになるのだ。六歳や七歳の子供にとって、その不安は計り知れないほど大きかった。

 「……ハルキ、緊張してる?」

 大阪からやってきた、少し鼻にかかった声の少年、シンジが、隣に立つ東京育ちの少年、ハルキに声をかけた。ハルキは、小さな眉間に皺を寄せ、度の強い眼鏡の奥にある瞳で、じっと校舎を見上げていた。

 「べ、別に。僕は東京生まれだから、多摩なんてすぐ近くだよ」

第三節 お世話係の温かい手と、なみさんの約束

 「わあ、すごい! 広い食堂だ!」

 子供たちが連れて行かれたのは、学生寮の一階にある、最新の厨房設備を備えた広大な食堂だった。そこには、白い割烹着や清潔なエプロンを身にまとった、男女10名のお世話係が、満面の笑みで子供たちを待ち受けていた。

 このお世話係は、ただ寮の管理や食事の準備をするために雇われたスタッフではなかった。安田龍之介が、「親元を離れて寂しい思いをする子供たちの不安を解消し、大家族のように温かく育てるため」に、人間性と包容力を最重視して特別に採用した、いわば「多摩の母、父」とも言える存在だった。学園の最初の十年間は、このお世話係たちが子供たちのすべての面倒を見る予定になっていた。

 「みんな、お腹が空いたでしょう。今日はお世話係の皆さんが作った、とっておきの特製カレーライスだよ!」

 お世話係の女性が温かい声をかけると、大皿に盛られた湯気立つカレーライスが、子供たちのテーブルに次々と運ばれてきた。スパイスの甘い香りが食堂いっぱいに広がり、子供たちの緊張は一瞬にして歓声へと変わった。

 「美味しい! こんなに具だくさんのカレー、初めて食べた!」

 シンジがスプーンを忙しく動かしながら目を輝かせ、ハルキもまた、夢中になってカレーを口に運んでいた。その様子をお世話係の十人が、まるで行儀の悪い我が子をたしなめるように、しかしこの上なく慈愛に満ちた眼差しで見守り、頭を優しく撫でてやっていた。

 「ねえ、君たち」

 ふいに、丈一郎がハルキとシンジの隣の席に腰掛けた。

 「お兄ちゃん、だれ?」

 ハルキが驚いてスプーンを止めると、丈一郎は穏やかに微笑んだ。

 「僕は安田丈一郎です。龍之介の息子だよ。僕も一週間に何日か、お父様に連れられてこの多摩の施設で一緒に生活しているんだ。だから、ここのことは何でも知っているよ。もし困ったことがあったら、いつでも僕やお世話係の皆さんに言ってね」

 「うん、ありがとう、丈一郎お兄ちゃん」

 シンジが嬉そうに頷く。

 「ねえ、お兄ちゃんの家って、もっとすごいごちそうが出るの?」

 シンジの素朴な質問に、丈一郎は楽しそうに首を振った。

 「ううん、我が家のごちそうといえば、三田の安田邸にいるお手伝いさんの、佐藤のなみさんが作る特大のハンバーグかな。なみさんはこの学園の職員ではないけれど、とっても優しくて料理が上手なんだ。いつか君たちが勉強を頑張って、三田の僕の家に遊びに来てくれたときには、なみさんが絶対に、お腹いっぱいになるまでごちそうを振る舞ってくれるよ。それを楽しみにしていて」

 「なみさんのハンバーグかあ、早く食べてみたいな!」

 ハルキも、まだ見ぬ三田のお手伝いさんへの期待に胸を膨らませ、声を弾ませた。こうして、十人のお世話係の温かい手と、丈一郎という年の離れた兄のような存在によって、子供たちの胸にあった「親と離れて暮らす不安」は、多摩の豊かな自然のなかに少しずつ溶けて消え去っていったのである。

第四節 200人の開学式

 午後一時。安田学園の大体育館は、かつてないほどの熱気と華やかな光に包まれていた。学園の一部はまだ工事中の足場が残る未完成な状態であったが、その不完全さを補って余りあるほどの、絢爛豪華な式典が執り行われようとしていた。

 式場に足を踏み入れた来賓の数は、実に200人を超えていた。新橋の料亭で龍之介の熱意に打たれた政財界のそうそうたる長老たちをはじめ、多摩や近隣の著名な文化人、地方自治体の有力者たちが、一堂に会していたのである。彼らの間を、秘書の高橋信介が汗をにじませながら忙しく走り回り、完璧な仕切りで席へと案内していた。

 「おい、見ろよ。たった30人の子供たちのために、これほど巨大な施設を造り、200人もの人間を招くとは……。安田龍之介という男は、やはり常軌を逸しているな」

 「いや、これこそが彼の『意気込み』の表れだろう。安田財閥の全資産を投じるというのは、どうやら本当のようだぞ」

 来賓たちの間で、驚きと感嘆の囁きが交わされていた。実際、30名の第一期生に対して、500名収容の学生寮や、全面芝生の巨大な運動場、50メートルプールといった施設は、客観的に見れば「大きすぎる」過剰なスペックであった。
しかし、それこそが、安田龍之介がこの安田学園の将来にどれほど圧倒的な情熱と期待を寄せているかを、社会に対して明確に示す、最も雄弁なメッセージとなっていたのである。

 体育館の端には、数多くの新聞社やテレビ局のマスコミ陣が陣取り、フラッシュバルブの鋭い光が何度も体育館の白い壁を照らし出していた。最前列に並んで座る小さな第一期生たちは、そのフラッシュの嵐に、再び緊張した面持ちで身を固くしていた。

 教育の大方針として掲げられたのは、「すべての分野において超一流の教育を実施する」ということ。これから彼らが受けるのは、国語、数学、科学、芸術、体育、文学など、あらゆる学問のトップランナーを講師に招いた、徹底的な英才教育である。それは、決してインテリジェンスや諜報活動、あるいはスパイ技術といった偏った分野を意識したものではなく、世界を牽引する本物の知性を、多角的に磨き上げるためのものだった。その超一流の学びのスタートを告げる開学式が、今、厳かに幕を開けようとしていた。

第五節 龍之介、マスコミへの咆哮

 「——それでは、安田学園設立者、安田龍之介より、開学の辞を申し上げます」

 司会者のアナウンスが響くと、体育館内は一瞬にして静まり返った。安田龍之介は、ゆっくりと、しかし確かな足取りで演壇へと登っていった。仕立ての良い黒のモーニングコートに身を包んだその姿は、普段の軽妙な男と同一人物とは思えないほどの、圧倒的な威厳と覇気に満ちていた。

 龍之介は、集まった200人の来客たち、最前列で自分を見つめる30人の小さな命、そしてカメラのレンズを向けているマスコミ陣を、ゆっくりと見回した。

 「皆さん」

 龍之介の声は、マイクを通さずとも体育館の鉄骨にまで響くほど、力強く、そして深く澄んでいた。

 「今、私たちの愛する日本国は、かつてない激動の渦中にあります。街を見れば、経済的な豊かさばかりを追い求める人々が溢れている。しかしその一方で、私たちの精神はどうでしょうか。若者たちは甘い左翼思想というまやかしに酔いしれ、ただ既存の秩序を破壊することにエネルギーを浪費している。成田の激しい反対運動、相次ぐ社会騒乱。私は、この背骨を失いつつある日本の世相に、強い、言葉にできないほどの危機感を抱いています」

 龍之介は一度、言葉を区切り、マスコミのカメラの群れを真っ直ぐに指し示した。

 「取材に来られているマスコミの皆さん! ぜひ、私のこの言葉を、誇張することなくそのまま世間に伝えていただきたい。強く、そして同時に、他者を包み込む優しさを持った、本物の日本国を作ること。それこそが、現代に生きる私たち大人の、決して逃れることのできない絶対的な責務であると!」

 そのあまりに熱い咆哮に、会場の全員が、息をするのも忘れたように演壇に釘付けになった。記者たちは、ペンを走らせる手すら止めて、龍之介の顔を見つめていた。

 「この多摩の地に築かれた安田学園は、ただの知識の詰め込みを行う学校ではありません。ここに集まった30人の小さな子供たちは、あらゆる分野において、世界一の超一流の教育を受け、本物の知性を身につけます。しかし、それ以上に重要なのは、彼らの魂に『日本民族の誇り』と、『国を護る使命』を刻み込むことです。国に頼らず、私たちが自らの手で、未来の日本を、そしてそこに生きる人々を裏から支える『見えない守護者』を育てる。この果てしない砂漠を歩み続ける駱駝のような闘いに、私は安田のすべての富と、私の命を賭けることを、ここに宣言いたします!」

 静まり返った体育館に、龍之介の誓いがこだました。一瞬の静寂の後、上座に座っていた綾小路孝之が、満足そうに深く頷き、ゆっくりと、しかし力強く両手を叩き始めた。

 その一人の拍手が、やがて地鳴りのような大きな拍手の渦となって、体育館全体を包み込んでいった。200人の来賓たち、そしてお世話係の十人までもが、涙を浮かべながら、安田龍之介の壮大な挑戦に対して惜しみない拍手を送り続けていた。

 ハルキとシンジは、その拍手の嵐の中で、演壇の上で誇らしげに胸を張る龍之介の姿を、まるで神聖な光を見るかのような目で見つめていた。彼らの幼い胸の奥に、生涯消えることのない「安田イズム」の種火が、今、確かに灯された瞬間だった。

第六節 砂漠の始まり

 翌朝の全国紙の一面は、多摩に誕生したこの奇妙で壮大な学園のニュースで持ち切りだった。

 『多摩の丘に、巨大な未来の要塞が出現』

 『安田財閥の遺産をすべて投入。謎の無料私塾「安田学園」の産声』

 新聞に掲載された龍之介の熱いスピーチは、日本社会に対して、文字通り「静かなる挑戦状」として突きつけられた。社会の冷ややかな目や、奇異なものを見るような視線もあったが、それすらも安田龍之介の圧倒的な意気込みと、学園の揺るぎない存在感を世間に知らしめる結果となった。

 開学式の喧騒が去り、数日が経った多摩の丘。秋の澄み渡る青空の下、ハルキとシンジをはじめとする三十名の第一期生たちは、全面芝生の美しい運動場の上に並んで立っていた。

 「みんな、準備はいいかい?」

 体育の超一流のインストラクターが、笑顔で子供たちに声をかけた。子供たちは、小さな足を一歩前に踏み出し、一斉に芝生の上を駆け出し始めた。その無邪気な笑い声が、多摩の丘陵地帯に心地よく響き渡る。

 運動場の脇では、丈一郎がその様子を嬉しそうに眺めながら、隣に立つ高橋信介のスーツの袖を引いた。

 「高橋さん。あの子たちは、きっとすごく強くて、優しい大人になるよね」

 「ええ、丈一郎先生」

 信介は、子供たちの走る姿を見つめながら、静かに、しかし深く頷いた。

 「龍之介先生が蒔いた種は、この多摩の豊かな土壌で、必ず大きな大樹へと育まれます。そしていつか、この国を裏からしっかりと支える、本物の守護者となるでしょう」

 激動の昭和の裏側で、のちに国家の基盤を、そして未来の「Camel Network」を異なる場所から支えることになる子供たちの、長くて過酷な、しかし何よりも温かい「砂漠の旅」が、今、ここに始まったのである。

 —

第三話 超一流の授業

第一節 教科書のない教室

 昭和52年の秋が深まる頃、東京都多摩市の旧日本軍払い下げ用地に建てられた安田学園の3階建てコンクリート校舎では、全く新しい形の学びが始まっていた。

 「さて、諸君。今日の授業を始めよう。ただし、この教室には君たちが一般の学校で使うような教科書は一冊もない。あれは過去の遺物だからね」

 教壇の上で悪戯っぽくウィンクをして見せたのは、白髪をきれいに整え、ツイードのジャケットを優雅に着こなした古谷教授だった。彼はつい数ヶ月前まで、国際社会の最前線で「日本の知性の窓口」として活躍していた高名な元外交官であり、国際政治学者であった。そんな超一流の頭脳が、わずか30人の、しかもまだ六歳から七歳の第一期生たちのために多摩に招かれ、直接教鞭を執っているのだ。

 安田学園が掲げた教育の大方針は、国際政治、経済、科学、芸術、文学など、すべての分野において超一流の教育を実施するということであった。世界をリードする本物の知性を多角的に育むことが真の目的であり、その教育理念の実現に真っ直ぐに突き進んでいったのである。

 特設教室の壁一面には巨大な世界地図が掛けられ、机の上には世界各国の最新の新聞や雑誌、さらには当時まだ珍しかった卓上電子計算機が並んでいる。

 「普通の学校なら、足し算や引き算、あるいは歴史の年号を暗記させるところだ。だが、そんなものは機械や辞書に任せておけばいい」

 古谷教授は机の上の計算機をポンと叩いた。

 「ここで学ぶのは、数字の裏にある『人間の意志』だ。そして、文字の奥に隠された『真実』を見抜く力だよ。たとえば——」

 教授は、一人の少年の前で足を止めた。

 「シンジ君。君の手元にある、イギリスのタイムズ紙の一面を見てごらん。何が書いてあるかな?」

 指名されたのは、大阪から推薦されて入学した一期生のシンジだった。まだ小さな体で、ブカブカの制服の袖を気にしながら、シンジは紙面をじっと見つめ、驚くほど流暢な英語で記事のタイトルを読み上げた。

 「『中東における緊張の高まり』……。アラブとイスラエルの和平交渉に関する記事です」

 「そうだ。では、その記事の隣にある、小さなバターの価格高騰のニュースはどうだい?」

 シンジは小さな額に微かに皺を寄せ、紙面をしばらく見つめた。

 「一見、関係なさそうに見えます。でも、中東が不安定になれば、石油の値段が上がるか、スエズ運河の通行が難しくなる。そうなると、ヨーロッパへの物資の輸送ルートが遠回りになって、船の燃料代が高くなる。だから、バターを運ぶコストが上がって、値段も上がるんじゃないでしょうか」

 七歳の口から出た論理的な推論に、教室の後方で見守っていたお世話係たちも思わず息を呑んだ。しかし、古谷教授は当然のように深く頷いた。

 「大正解だ、シンジ君。世界は目に見えない細い糸で、すべて繋がっている。一つの国で風が吹けば、地球の裏側で誰かが泣き、あるいは笑う。それを読み解き、あらゆる分野で一流たる大局観を磨くのが、私たちの最初の学問だ」

第二節 地球儀の上の心理戦

 この最先端の講義を、教室の最後列から、一人の少年が静かに見守っていた。17歳の安田丈一郎だった。

 丈一郎はまだ正式な学園生ではなかったが、父の龍之介に連れられて一週間に二〜三日はこの多摩の施設に滞在し、ゲストハウスで生活を共にしていた。そのため、時間があるときはこうして教室の隅に座り、第一期生たちの成長を温かい目で見届けるとともに、自らも超一流の講師陣の知性に触れていたのだ。

 丈一郎の視線の先では、もう一人の一期生であるハルキが、小さなノートに万年筆で驚くほど細かな世界の物流ルートの相関図を描き走らせていた。その集中力は、周囲のざわめきを一切遮断しているかのようだった。

 「丈一郎君はどう思う?」

 古谷教授が、今度は最後列の丈一郎に向かって微笑みかけた。

 「この世界地図の中で、今、最も『不自然な静けさ』を保っている場所はどこだと思うかね?」

 丈一郎は、ゆっくりと立ち上がり、壁に掛けられた世界地図を見上げた。米ソの冷戦構造が世界を二つに引き裂き、各地で代理戦争や緊張が続く、まさに1977年の現実を映し出した地図だった。

 「……ここです」

 丈一郎が静かに指し示したのは、極東の小さな島国 -日本だった。

 「ほう、日本かね? 外では景気が良いと浮かれ、所得も増えて平和そのものに見えるが、それが不自然だと?」

 「はい」

 丈一郎は、17歳とは思えない穏やかな、しかし芯の通った声で答えた。

 「外の平和は、巨大な力同士がせめぎ合って、たまたまバランスを保っている均衡点の上に成り立っているに過ぎません。日本は今、経済の繁栄という甘い夢の中にいますが、その足元にある安全保障の基盤はきわめて脆い氷の板のようです。もしどちらかの極がほんの少し動けば、この島はあっという間に冷たい海に呑まれてしまう。だからこそ、僕たちは今から、その氷がいつ割れるかを察知し、自らの力で国を支え、導くための総合的な力を身につけなければならないと思います」

 古谷教授は、驚きを通り越して、深い感銘を受けたように目を細めた。

 「素晴らしい洞察だ、丈一郎君。まさにその通りだ。君たちが各分野で修める超一流の知性は、いつか国難が訪れたときに、自らの力で国を支え、人々を導くための盾となるのだよ」

第三節 誇りと使命の種火

 「素晴らしい講義でした、古谷先生」

 パチパチと、控えめな拍手の音が響いた。教室の入り口に、安田龍之介が立っていた。四十七歳の若々しい設立者は、子供たちの真剣な表情を見て、満足そうに微笑んでいた。

 「皆さん、今日の授業はどうでしたか?」

 龍之介が問いかけると、一期生たちは一斉に姿勢を正した。龍之介は、シンジの机に歩み寄り、彼が描いていた複雑な物流ルートの図をのぞき込んだ。

 「真面目に描けてるね、シンジ君。君たちのその小さな頭脳には、この世界を丸ごと描き出す無限の可能性がある。だがね、みんな。忘れないでほしい」

 龍之介は、教壇の前に立ち、子供たち一人一人の目をじっと見つめた。

 「どれだけ高度な知識を身につけ、世界を分析できるようになっても、それだけではただの『知識の詰め込み』に過ぎない。私たちがここで君たちに教えたいのは、学問の暗記ではないんだ」

 龍之介は、そっと自分の胸に手を当てた。

 「なぜ、学ぶのか。それは、この日本という国を、そしてここに生きる人々を護るためだ。世界がどれだけ激しく揺れ動こうとも、私たちは日本民族としての誇りを失ってはならない。そして、将来、経済、学術、実業、芸術など、どんな分野でどのような活躍をしようとも、この国を裏から支える『見えない守護者』になるという使命を、その魂に刻み込んでほしいんだ」

 「日本を、護る使命……」

 ハルキが、小さな声でその言葉を繰り返した。

 「そうだ。君たちは、この国の未来の盾であり、矛になる。そのためには、誰よりも優しく、そして誰よりも強くあらねばならない。あらゆる学問を世界一のレベルで修め、同時に、他者を包み込む温かい心を持つんだ」

 龍之介の言葉は、まるで魔法のように、七歳の子供たちの心に深く、静かに染み渡っていった。それは、彼らがこれから過酷な「砂漠の旅」を経て大人へと成長していく過程で、決して消えることのない「安田イズム」の種火となったのだ。

 窓の外には、多摩の広大な全面芝生の運動場が静かに広がっていた。一部未完成の施設からかすかに聞こえる槌音さえも、未来への確かな産声のように、子供たちの胸を高鳴らせていた。

  第四話 見えない守護者たちの誓い

  第一節 テレビの向こうの冷たい風

 昭和54年の冬、世界は再び大きな動揺の渦中にあった。イラン革命を発端とする第二次オイルショックの嵐が吹き荒れ、ガソリンスタンドには長蛇の列ができ、街の灯りは省エネのために早々と消された。さらに年末には、ソ連軍によるアフガニスタン侵攻という衝撃的なニュースが世界を駆け巡り、米ソのデタントは完全に崩壊して「新冷戦」と呼ばれる極限の緊張状態へと突入していったのである。

 多摩の安田学園にあるゲストハウスの応接室では、安田龍之介が、静かに珈琲カップを傾けながらモノクロテレビのニュース映像を見つめていた。その隣には、当時、東京大学で法学を学びつつあった息子の安田丈一郎が、厚い専門書を膝の上に広げたまま、父親と同じように厳しい表情で画面を見つめている。

 「お父様、世界はまた、冷たくて暗い場所へと戻ろうとしているのですね」

 丈一郎の静かな問いかけに、龍之介は小さく苦笑して珈琲カップをソーサーに置いた。

 「世界が温かかったことなど、一度もないさ、丈一郎。私たちはたまたま、冷戦の狭間にある束の間の温室にいただけなのだよ。だが、見てごらん。あの子たちの目を」

 龍之介が視線を向けた先、ロビーの暖炉の前に、第一期生の子供たちが集まっていた。開学式から二年が経ち、彼らは八歳から九歳の少年少女へと成長していた。テレビに映し出されるアフガニスタンの戦火や、原油高騰に右往左往する大人たちの姿を、ハルキやシンジら子供たちは、ただ怖がるのではなく、古谷教授から授かった超一流の国際政治の視点を用いて、極めて冷静に分析するように見つめていた。

 彼らにとって、外の世界の大騒ぎは決して他人事ではなかった。あらゆる分野の「超一流」を目指して日夜机を並べる彼らは、いつか自分たちがどのような道に進もうとも、この動揺する日本国を裏から支え、護らなければならないという無言の使命感を、その幼い胸の奥に確かに宿し始めていたのである。

  第二節 プラチナの約束と「c」の誓い

 「諸君、ちょっとこちらに集まっておくれ」

 龍之介が優しく声をかけると、子供たちは一斉にテレビから視線を外し、龍之介と丈一郎の前に整然と並んだ。その洗練された立ち居振る舞いは、とても八歳や九歳の子供のものとは思えないほど、すでに凛とした気品に満ちていた。

 「みんな、ここでの生活には慣れたかい? お世話係の皆さんの言うことをよく聞いて、毎日しっかりと学んでいるようだね」

 龍之介が微笑むと、ハルキとシンジが代表して「はい、毎日とても楽しいです」と力強く答えた。龍之介はその答えに満足そうに頷くと、傍らに控える私設秘書、高橋信介に目配せをした。

 信介は静かに一礼し、黒いベルベットのトレイを持って子供たちの前に進み出た。トレイの上には、鈍い銀色の美しい輝きを放つ、細くてシンプルなプラチナ製のブレスレットが一つだけ置かれていた。子供たちはその美しい金属の輪に、一斉に目を輝かせた。

 「これはね、君たちがこれからさらに厳しい学びを重ね、十六年間のすべての課程を修めてここを巣立つその日に、私から一人一人に贈る約束のブレスレットだ」

 龍之介はブレスレットを手に取り、子供たちの目の前で掲げて見せた。そこには、非常に繊細な技術で、美しいアルファベットが刻印されていた。

 『CAMEL 1993』

 「一期生である君たちがここを卒業するのは、今から14年後の1993年になる。その時、君たちは22歳の立派な大人だ。このプラチナの輪は、君たちが安田学園の誇り高き同胞であるという、生涯消えることのない証になる。そして、これからどれほど過酷な運命や孤独な闘いに直面しようとも、君たちは決して一人ではないという、私と君たちの間の生涯の約束だ」

 子供たちは息を呑み、未来の自分たちの手首に輝くであろうそのプラチナの約束を見つめた。それは、法務、実業、経済、科学など、あらゆる分野の超一流として、いつの日か国を護る盾になるという重い使命を、幼い魂に引き受けるための厳かな儀式でもあった。

 「もう一つだけ、将来の秘密のルールを決めよう」

 龍之介はいたずらっぽく片目を瞑って見せた。

 「これから先、君たちが成長して仲間同士で連絡を取り合うとき、あるいは私や丈一郎に手紙をくれるときには、その署名の末尾に、こっそりと小文字の『c』を書き添えておくれ。それは、砂漠を黙々と歩き続ける、粘り強くて決して倒れない駱駝(Camel)の頭文字だ。その一文字を見るだけで、君たちはいつでも、この多摩の美しい青い芝生と、みんなで過ごした温かい日々を思い出すことができる」

  第三節 三田のハンバーグの約束

 「お父様、もう一つ、あの子たちに大切な約束をしてあげないと」

丈一郎が、傍らから穏やかな笑みを浮かべて口を挟んだ。龍之介は「おっと、そうだったね」と手を叩き、子供たちを見回した。

 「みんな、ここ多摩の寮の食事も、十人のお世話係の皆さんが作ってくれてとても美味しいだろう。だがね、いずれ君たちがここを卒業し、あるいは途中で東京・三田にある私の邸宅を訪れることがあれば、我が家の自慢のお手伝いさんである、佐藤のなみさんが、とっておきのごちそうを作って歓迎してくれるはずだ」

 「なみさんの、ごちそう?」

 シンジが不思議そうに尋ねると、丈一郎が嬉しそうに頷いてみせた。

 「そうだよ。なみさんは学園の職員ではないから、この多摩の食堂にはいないけれど、僕の家で40年間も仕えてくれている、とっても優しくて料理が上手な家政婦さんなんだ。なみさんが作る特大のハンバーグは、本当にお皿からはみ出るくらい大きくてジューシーで、世界一美味しいんだよ。君たちが三田の僕の家に遊びに来てくれたときは、なみさんがお腹いっぱいになるまでそれをごちそうしてくれる」

 「わあ、特大ハンバーグ! 早く食べてみたいなあ」

 ハルキがごくりと唾を呑み込み、他の子供たちからも無邪気な笑い声が上がった。

 この時点では、多摩の寮の食堂になみさんは勤務しておらず、彼女はあくまで三田の安田邸のお手伝いさんであった。しかし、龍之介と丈一郎が語るその「なみさんの特大ハンバーグ」の約束は、親元を離れて寂しさを堪えながら学ぶ子供たちにとって、将来の大きな楽しみとなり、生徒たちの間ではまだ見ぬなみさんが「お馴染みの存在」として定着していくきっかけとなったのである。

 「さあ、みんな。世界がどれほど冷たく揺れ動こうとも、私たちはここで、誰よりも優しく、そして誰よりも強くあらねばならない。日本の未来は、君たちのその小さな両肩にかかっているんだよ。しっかり学びなさい」

 龍之介の温かい送り出しの言葉を胸に、30人の小さな駱駝たちは、再び暖炉の炎に照らされながら、自らの未来を見据えるように力強く頷いた。

 窓外の環境には、多摩の広大な全面芝生の運動場が、静まり返った夜の闇の中で美しく広がっていた。激動の昭和の終わりに向けて、のちに国家の屋台骨を異なる場所から支えることになる子供たちの、温かくて、そして少し特別な共同生活の夜は、こうして静かに更けていくのだった。
(駱駝のうぶごえ 完)

Editor:しまど佐内 & Gemini Mail Address:sanai.shimado@camel-club.org