砂漠の針、青い海の逃亡者
第1話 三田の大邸宅
「んーん、やっぱりなみさんの作るお味噌汁の匂いは、世界一ね。毎朝これだけでパッチリ目が覚めちゃうわ」
三田にある広大な安田邸。その一階の広々とした食堂には、カツオと昆布の出汁がしっかりと効いた、極上の和食の香りが立ち込めていた。
ふかふかのソファーに深く腰を下ろした高橋伸子は、手元の大きめのタブレットからふと目を上げ、キッチンに向かって明るい声をかけた。
「あら、伸子さん。朝からそんなにおだてたって、卵焼きの切れ端はおまけしませんよ」
キッチンから顔を出した家政婦の佐藤なみは、40年もこの安田邸を切り盛りしてきた大ベテランだ。73歳とは思えない若々しい笑顔で、小気味よい音を立てながら手際よく朝食の配膳を進めている。
「えー、残念。でも本当にいい香り。……よし、こっちも異常なし、っと」
伸子はクスッと笑いながら再びタブレットに視線を戻し、慣れた手つきで画面をスワイプした。画面には複雑なグラフや文字列が滝のように流れているが、彼女の目はその中から必要な情報だけを瞬時に拾い上げていく。
「定例のニュースのチェックですか? それとも、あのシステムの?」
なみがお盆に小鉢を乗せながら尋ねる。
「両方よ。今日も『Camel-System』はご機嫌みたい。深刻な情報空間の歪みは検知されていないっていうレポートが出てるわ。世の中、とりあえずは平穏無事ってことね」
「それは何よりです。平和が一番ですよ、本当に」
なみが温かいお茶とご飯をテーブルに置くと、そこにちょこんと座っていた六歳の少女が、待ちきれないといった様子で元気な声を上げた。
「なみおばあちゃん、この卵焼き、あまくておいしいー!」
伸子の愛娘、かなえである。口の周りに少しご飯粒をつけて、黄色い卵焼きを幸せそうに頬張っていた。
「ふふふ。そうかい、そうかい。かなえちゃんがいっぱい食べてくれると、おばあちゃんも嬉しいよ。おかわりもあるからね」
「うんっ! あ、でも、 ママの分も残しといてあげるね!」
「あら、ありがとう。かなえは優しいわね。でもママは卵焼きより、かなえが残さず食べてくれる方が嬉しいな」
伸子が目を細めて愛娘を見つめていると、階段の方から、少し重たく引きずるような足音が聞こえてきた。
トントン、とゆっくりしたリズムで二階から降りてきたのは、この大邸宅の主であり、安田ホールディングスの副会長でもある安田丈一郎だった。
六十六歳になる丈一郎の顔立ちは普段から穏やかで優しげだが、今朝は少し様子が違った。目の下にはくっきりとクマができ、足取りもおぼつかない。寝癖も少し残っている。
「やあ、おはよう……。いやあ、一階に降りてくると、本当にいい匂いがするねぇ。お腹が鳴りそうだ」
丈一郎がふらふらと食堂に入ってくると、伸子が慌ててタブレットを置き、立ち上がった。
「先生、おはようございます。……って、そのお顔、もしかして、また徹夜ですか?」
「ああ、うん。ちょっとね。システムの調整に思いのほか手間取ってしまって……気づいたら窓の外が明るくなっていたよ」
「だめですよ! 無理をなさっては。いくら『情報空間の分析』が大事でも、お体が資本なんですから。昨日の夜も、あまり眠れていなかったじゃないですか」
伸子が少し語気を強めて気遣いの言葉をかけると、キッチンからなみもすかさず援護射撃に入った。
「そうですよ、坊ちゃん……じゃなかった、先生! 昔から夢中になると寝食を忘れるんだから。少しは自分の年齢を考えてくださいな。若い頃とは違うんですからね」
40年仕えるなみからすれば、66歳の副会長も、まだまだ世話の焼ける「坊ちゃん」なのだ。
「ははは、二人して厳しいなぁ。でも、すまない。心配をかけたね。なみさんの美味しい朝食をいただけば、きっとすぐに元気が湧いてくるさ。それに、システムのアップデートはどうしても昨夜の間に終わらせておきたかったんだ」
丈一郎が申し訳なさそうに苦笑いしながら、かなえの隣 の 席につこうとした、その時だった。
「おはようございまーす! いやあ、今朝は爽やかな朝ですね!」
勢いよく食堂のドアを開けて入ってきたのは、作業着姿のたくましい男。なみの息子であり、安田邸の広大な庭の手入れと、厳重なセキュリティ管理を任されている佐藤次郎だ。元自衛隊の特殊部隊にいたというだけあって、その体格はがっちりしているが、笑顔は驚くほど人懐っこく、どこか愛嬌がある。
「あら、次郎さん。朝のお仕事中にごめんなさいね。朝ご飯、もうできてるわよ」
なみが声をかけると、次郎は「やった!」と子どものように顔をほころばせた。
「母さんのメシの匂いが庭まで漂ってきて、もうお腹がペコペコでしてね。機械室の設備チェックも終わったんで、ちょうど良かったです」
「じろうおじちゃん!!」
その野太い声を聞くや否や、それまで卵焼きに夢中だったかなえが、スプーンを置いてぱっと顔を上げた。
タタタタッ、と短い足で駆け寄り、次郎の大きな足にぎゅっと抱きつく。
「おっ、かなえちゃん! おはよう。今日も朝から元気で可愛いねえ。卵焼き、いっぱい食べたか?」
次郎がしゃがみこみ、大きな手でかなえの頭を撫でると、かなえは嬉しそうにキャッキャと笑った。
「うん! あまくておいしかった! おじちゃんにも、一口だけあげる!」
「本当か? そりゃあ嬉しいな。おじちゃん、かなえちゃんからもらう卵焼きが一番好きかもしれないぞ」
「こらこら、かなえ。次郎さんのお仕事の邪魔しちゃだめよ。ほら、席に戻って」
伸子が優しくたしなめつつも、その表情はとても柔らかい。
丈一郎も、その賑やかなやり取りを特等席から眺めながら、温かいお茶をすすった。
「いやあ、朝から活気があっていい。徹夜の疲れも吹き飛びそうだよ」
丈一郎が目を細めて笑うと、伸子もふっと息をついて微笑んだ。
「もう、先生は甘いんだから。……さあ、皆で冷めないうちにいただきましょうか」
伸子の号令で、安田邸の面々は賑やかに食卓を囲んだ。
情報空間の歪みを監視し、人知れず日本の危機と闘う裏の顔を持つ彼らだが、この朝の食堂に流れる時間だけは、どこにでもあるような、穏やかで温かい家族の朝そのものだった。
第2話 安田丈一郎
食後の温かいお茶を飲み干し、安田丈一郎は「あー、美味しかった。ごちそうさま」と小さくつぶやいて、ふかふかのソファーから静かに立ち上がった。六十六歳という年齢のわりに背筋はスッと伸びているが、昨夜からの徹夜作業のせいで足取りはやはり少し重い。
彼は二階にある自身の執務室へと向かう階段を一段ずつ上りながら、ふと、踊り場の窓の外に広がる青々とした三田の空を見上げた。初夏のまぶしい陽光が、歴史ある安田邸の広大な庭を明るく照らしている。風に揺れる木々の葉が、きらきらと光を反射していた。
丈一郎が現在開発に没頭している「Camel-System」の中核システム、「ISAS(情報空間分析システム)」の構想を抱いたのは、もう何十年も前のことだ。
振り返ってみれば、彼の人生の前半は、まさに絵に描いたようなエリートコースの王道を歩むものだった。東京大学法学部を首席クラスの成績で卒業した後、周囲の期待を一身に背負って海を渡り、アメリカの最高学府であるハーバード大学大学院へ進学。そこでMBA(経営学修士)を取得した若き日の彼は、そのままエリートビジネスマンとしてウォール街の金融街を闊歩する……と誰もが思っていた。
ところが、彼はあっさりとその道を外れ、西海岸の太陽が降り注ぐカリフォルニアにある人工知能研究所に飛び込んだのだ。
「これからは情報の時代だ。金融や政治ではなく、目に見えないデータ空間を制する者が、間違いなく未来の世界を制する」
インターネットがまだ一部の限られた研究者の間でしか使われていなかった時代に、彼はすでにサイバー空間の底知れぬ可能性と、その裏側に潜む巨大な脅威を肌で感じ取っていたのである。
西海岸での八年間は、彼にとってまさに人生の黄金期と呼べる充実した日々だった。
研究所での先進的なシステム開発に寝食を忘れて没頭する毎日。同僚たちと夜通しピザをかじりながら議論を戦わせたこともいい思い出だ。そして何より、その地で出会い、結ばれた最愛の妻の存在が大きかった。ロサンゼルスの突き抜けるような青空のように底抜けに明るく、常に笑顔を絶やさない魅力的な女性だった。仕事も順調そのもので、私生活もこれ以上ないほど幸福に満ちていた。休日はサンタモニカの海岸を二人で手をつないで散歩し、波の音を聞きながら未来の夢を語り合った。まさにバラ色の人生、そのものだった。
だが、運命の女神というのは、時として残酷なほどあっさりと、幸福の絶頂から人を突き落とす。
ある日、研究所でいつものようにシステムのコードと格闘していた丈一郎のもとに、一本の電話が入った。妻がロサンゼルス郊外のフリーウェイで、凄惨な交通事故に巻き込まれたという知らせだった。嫌な予感を胸に急いで病院に駆けつけたときには、彼女はすでに冷たくなっていた。
「どうして……僕がもっと早く帰って、一緒に買い物に行っていれば」
突然の別れ。あまりにも理不尽な喪失感に、丈一郎は深く打ちのめされた。悲嘆に暮れた彼は、まるで自分自身の魂の半分をえぐり取られたかのように、ただぼんやりと日々を過ごした。輝いていたカリフォルニアの太陽も、西海岸の陽気な風も、彼の凍りついた心を溶かすことはできなかった。すべてが色褪せてモノクロームに見え、情熱を注いでいた最先端のAI研究すら、彼にとってはただの虚しい文字列の羅列に過ぎなくなってしまったのだ。
失意の底に沈んだ丈一郎は、逃げるようにして日本へと帰国した。
その後、彼の優秀な頭脳を惜しんだ政府関係者の声がかりで、1998年に政府系の先端技術情報システム研究所に迎えられることになった。そこで教鞭をとりながら研究を続けることになったのだが、そこでの十年間は、傷ついた心を少しずつ癒やし、再び「情報空間」という自らの使命に向き合うための、静かで孤独な準備期間だった。
若い学生たちに情報の未来やサイバーセキュリティの重要性を語りながら、彼は少しずつ確信を深めていった。日本という国が、迫り来るサイバー空間の脅威に対して、あまりにも無防備であるという恐ろしい現実に。
そして2008年、丈一郎は十年間勤めた研究所をすっぱりと辞め、三田の安田邸に半ば引きこもり、長年温めてきた「ISAS」の完成に向けて、文字通り自分のすべての時間とエネルギーを注ぎ込むことを決意した。
そんな彼に、決定的な転機が訪れたのは2024年のことだった。偉大なる父、安田龍之介の死である。
明治期から続く莫大な資産を引き継ぎ、自らの卓越した手腕で巨大な安田財閥へと発展させた父。94歳で大往生を遂げた龍之介は、単なる金儲けの上手い実業家ではなかった。「日本民族の心に根ざした国づくり」という強烈な信念を持ち、私財をなげうって「駱駝学園」という私塾を創設し、日本の未来を背負って立つ優秀な人材の育成に情熱を燃やし続けた、本物の愛国者だった。
困難な時代に国を背負い、最後まで日本を想い続けた父の死に直面し、丈一郎の中で長らく眠っていた何かが、パチリと音を立てて目覚めた。
「父が愛し、命を懸けて護ろうとしたこの国を、今度は私が護らなければならない」
丈一郎は父の他界後、安田ホールディングスの副会長というポストに就任した。しかし、周囲の期待とは裏腹に、彼は経営の第一線には一切立とうとしなかった。
「会社の経営については、信頼できる会長や役員のみんなに一任する。私には、他にやらねばならないことがあるんだ。目に見えない危機から、この国を護るという使命がね」
周囲は「副会長ともあろう人が何を言い出すんだ」と唖然としたが、彼の決意は岩のように固かった。彼が選んだのは、三田の大邸宅で「ISAS」の構築と精緻化に没頭することだった。
もちろん、彼はただ引きこむだけで無為にシステムをいじっていたわけではない。巨額の個人資産を元手に、自ら開発した初期のAIシステムを利用して株式投資を行い、驚異的な実績を上げて莫大な資金を稼ぎ出していた。そして、その資金のすべてを、世界最強の情報空間管理システム「ISAS」の構築に惜しみなく注ぎ込んだのである。
目に見えない情報空間の歪みを検知し、日本という国を陰から守り抜く。デフレにあえぎ、縮小していく日本を積極財政によって力強く再生させ、次世代の子供たちに「豊かで強い日本」を残すためなら、どんなバッシングも恐れない。
それが、亡き妻への鎮魂であり、亡き父から受け継いだ重い使命を果たす、彼なりの「闘い」だった。
「……さて、昔を懐かしんでいる暇はないな。徹夜明けで少し頭はぼんやりしているが、もう少しだけシステムの様子を見ておこう」
二階の廊下を歩ききり、執務室の重厚なドアを開けた。その奥にある薄暗いオペレーションルームに足を踏み入れると、壁の三面を囲む巨大なモニターが、静かな青い光を放って彼を迎え入れた。
足取りはおぼつかないが、その穏やかな瞳の奥には、決して揺らぐことのない強靭な意志の炎が、静かに、そして熱く燃えていた。
第3話 高橋伸子
朝食を終えた高橋伸子は、愛娘のかなえをアメリカンスクールの送迎バスの停留所まで見送った後、安田邸の二階にある自身の部屋(秘書室)へと向かった。
28歳という若さでありながら、彼女の立ち居振る舞いには、どこか凜とした静かな強さが漂っている。すれ違う誰もが思わず見とれてしまうほどの「聡明な日本的美人」である彼女だが、その美しい瞳の奥には、常に状況を冷徹に分析する知性の光が宿っていた。
彼女の人生は、この三田の大邸宅と共にあったと言っても過言ではない。
伸子の父、高橋信介は、長年にわたり安田財閥の総帥・安田龍之介の第一秘書を務め上げた人物だった。そのため、彼女は幼い頃から父と共にこの邸宅に同居し、庭の木々や重厚な廊下を遊び場にして育ったのだ。偉大なる龍之介のことは「おじいちゃま」のように慕って祖父のような師と仰ぎ、そして幼い頃から丈一郎のことは、志を同じくする優しい「お兄様」のように見上げてきた。
そんな彼女が、学びの場として選んだのは英国のオックスフォード大学だった。「メディア・コミュニケーション論」を専攻し、現代社会における世論形成のメカニズムを研究する傍ら、最先端の人工知能(AI)についても深く学んだ。これからの時代、情報戦を制するためにはAIの力が不可欠だと直感していたからだ。
しかし、その歴史ある霧の街で、彼女は生涯の愛と、最大の悲劇の両方を経験することになる。
大学在学中、伸子は英国海軍の若き士官、エドワードと運命的な恋に落ち、結婚した。彼との間には、愛らしい一人娘のかなえも授かり、幸せな未来がずっと続くものだと信じて疑わなかった。
しかし、エドワードは2021年、赴任先のアフガニスタンで、凄惨な戦闘に巻き込まれて戦死してしまう。
冷たくなった夫の遺品を前にした時、伸子の中で何かが決定的に変わった。「平和」というものは、ただ祈っていれば天から降ってくるような甘いものではない。力と強靭な意志によってのみ、それは維持され、守られるものなのだと。愛する者を戦場で失った未亡人としての痛切な経験が、彼女の国家観に強烈なリアリズムと覚悟を植え付けたのである。
悲しみを胸に秘め、かなえを抱いて帰国した伸子は、日本の大手メディア企業に勤務した。しかし、彼女の運命は再び安田邸へと引き寄せられることになる。
2023年、最愛の父・信介が七十七歳でがんを患い他界したのだ。
悲しみに暮れる間もなく、伸子は父の遺志を継ぐ形で、安田龍之介の秘書業務を全面的に引き継ぐこととなった。メディアの世界で培った情報処理能力と、オックスフォードで学んだAIの知識は、高齢となった龍之介をサポートする上で絶大な力を発揮し、膨大な名刺データベース「YDBシステム」のデジタル化なども成し遂げた。
そして、2024年に龍之介がこの世を去った時。
後継者である丈一郎が安田ホールディングスの副会長に就任し、同時にこの三田の邸宅で本格的に「ISAS(情報空間分析システム)」の精緻化に没頭し始めた時、伸子がそのまま「先生」の秘書として邸宅に留まるのは、ごく自然な、運命の必然とも言える流れだった。
「先生のことは、私が全力でお守りします。龍之介様と父が、そうしてきたように」
現在の伸子の役割は、単なる秘書の枠を遥かに超えている。丈一郎が描く「強く豊かな日本」という理想を、現代の「情報戦」という戦場で現実のものとするための、最高戦略責任者(CSO)なのだ。
安田に向けられる不当なバッシングや情報操作に対しては、AIを用いたデータ解析で反論の根拠を提示し、論理的に沈黙させる「知性の盾」。そして、安田のメッセージを最先端のクールなものとして世界に発信する「戦略の矛」。それが彼女の役割だった。
さらに重要なことに、彼女は「ISAS」という強大なシステムが暴走しないための絶対的な拒否権……通称「ベジタブル・スイッチ」を握る唯一の人物でもあった。どんなに丈一郎がシステムを作動させようとしても、伸子がコンソールでNO(ロック)を出せば、システムは決して動かない。強大な矛をコントロールする、最も重要な安全装置を彼女は託されているのだ。
「さてと。先生の頭脳をフル回転させるためには、私もしっかりサポートしなきゃね」
二階の自室、オペレーションルームとつながる秘書室のデスクについた伸子は、手元の端末を起動させた。
画面には、世界中からリアルタイムで収集された膨大なデータが、滝のように流れ込んでくる。
彼女の戦う動機は、極めてシンプルで、そして力強い。
愛する娘、かなえが生きるこれからの日本を、決して貧しく、弱々しい国にはしないこと。国際社会で堂々と渡り合える、強く豊かな国として守り抜くこと。
「今日も、情報空間に深刻な歪みはなし……っと。さあ、お仕事開始ね」
聡明な美しい未亡人は、静かな闘志を瞳に宿し、軽やかにキーボードを叩き始めた。
第4話 Camel System(Camel)
安田邸の二階の奥。重厚なオーク材の扉を開けると、そこはまるでSF映画の宇宙船の司令室だった。
壁の三面を覆い尽くす巨大なモニター群。そこには世界中から集められた膨大なデータが、無数の光の波となって滝のように流れ落ちている。小さな窓には薄緑色のステンドグラスがはめ込まれており、部屋全体を水底のような神秘的な光で満たしていた。
「先生、今日の『Camel-System』も絶好調ですよ。ご機嫌麗しいって感じです」
二つ並んだコンソールの片方に座り、流れるような手つきでキーボードを叩きながら、高橋伸子が明るい声を上げた。
「それは何よりだね、伸子さん。徹夜で調整した甲斐があったというものだよ」
もう一方の席に深く腰掛けていた安田丈一郎が、温かいコーヒーの入ったマグカップを片手に、穏やかな笑顔を見せた。
この部屋こそが、丈一郎がその私財と人生のすべてを注ぎ込んで構築した『Camel System(通称:Camel)』の心臓部である。
その中核をなすのが、「ISAS(情報空間分析システム)」だ。
丈一郎がアメリカに留学していた若き日から構想を温め、気の遠くなるような時間をかけて開発を続けてきた人工知能システムである。
「しかし、改めて見るとすごいシステムですよね」と、伸子がモニターを見上げながら感嘆の息を漏らす。
「インターネットという広大な情報空間の中から、世論の『歪み』や不自然な情報の流れを検出し、近未来の危機を予測してしまうんですから」
「まあ、基本的には公開されている合法的なデータを集めているだけなんだけどね。世界中のニュース、SNSの書き込み、株価の変動、気象データ……ありとあらゆる公開情報のパズルを組み立てて、未来の絵を描くんだ」
丈一郎が優しく説明する。
ISASの最大の特徴は、その予測確率を明確なグレードで弾き出すことだ。
発生予測確率70%以上を「グレードA」、50%以上を「グレードB」、30%以上を「グレードC」として分類し、日本の安全保障や経済に悪影響を及ぼす事象を未然に察知する。
「でも先生、ISASがここまで完璧な精度を誇るようになったのは、間違いなく『あれ』のおかげですよね」
伸子が少し得意げな笑みを浮かべた。
「ああ。君が地下室で見つけてくれた、あの宝の山のおかげだよ」
丈一郎も目を細める。
それは、丈一郎の父・安田龍之介が他界した直後のことだった。
邸宅の地下倉庫の整理をしていた伸子が、埃をかぶった大量の段ボール箱を発見したのだ。中に入っていたのは、数え切れないほどの名刺と、几帳面な文字でびっしりと書き込まれた大学ノートの束だった。
『これ……おじいちゃまの交友録じゃない!』
伸子は震える手でノートをめくった。そこには、国内外の政界、財界はもちろん、裏社会や文化人、末端の役人に至るまで、あらゆる分野の人物評価や弱点、裏の繋がりが克明に記されていた。約2200名にも及ぶ、日本の骨格を動かす巨大な人脈ネットワーク。まさに「安田龍之介の頭脳」そのものだった。
「この『安田家交友録』を眠らせておく手はありません」
伸子はその足で丈一郎の元へ走り、直ちにデジタル化を進めた。彼女自身がオックスフォードで学んだ人工知能の知識をフル活用し、強力な検索データベース「YDBシステム」として構築し直したのだ。
これがISASと連携したことで、単なるネット上のデータ予測に「人間の泥臭い関係性」という強力な裏付けが加わり、システムは飛躍的な進化を遂げたのである。
「あの時の伸子さんの行動力には、本当に驚かされたよ」
丈一郎の言葉に、伸子は「ふふっ」と笑ってウインクした。
「秘書としての有能さを証明したかっただけですよ。……でも先生の『思い切りの良さ』には、私の方こそ驚かされましたけどね。あのパーティーの夜のことです」
伸子の言葉に、丈一郎は苦笑いして頭を掻いた。
あれは、「先端情報技術研究所」の設立二十周年記念パーティーの夜だった。
久しぶりに公の場に顔を出した丈一郎は、そこで懐かしい人物と再会した。ロサンゼルス時代の同僚、ビル・アンダーソンだ。
『ジョー! 久しぶりだな。実は今、すごいプログラムを開発中でね。完成間近なんだが、資金が少しショートしてしまって……一口乗らないか?』
パーティーの終了後、丈一郎と伸子は最上階のバーでビルの話を詳しく聞いた。
ビルが持ちかけてきたのは、「PDSP(Personal Data Scanning Program)」という代物だった。
それは、ターゲットの携帯デバイスの通信範囲内にある別のデバイスから、通話履歴、メール、カメラの画像、さらには周囲の音声まで、あらゆる個人情報をスキャニングして盗み出すという、極めて危険なプログラムだった。
『アメリカでも日本でも、完全に非合法のシロモノじゃないか……』
丈一郎は渋った。しかし、ISASの将来的な可能性……いざという国家の危機の際、公開情報だけでは限界が来るかもしれないという予感……が、彼の心を揺さぶった。
さらに丈一郎は、このPDSPのデータをISASに組み込めば、ターゲットのデバイスを「完全にモニターする」という恐るべき機能に発展させられることに気づいてしまったのだ。
『百万ドルだ。百万ドル出資してくれれば、使用権を渡す』
ビルの言葉に迷う丈一郎の背中を押したのは、他でもない伸子だった。
『先生。将来のための保険です。出資なさるべきです』
『しかし、銀行送金では足がつくぞ』
『ご心配なく。支払いは追跡不可能な暗号通貨で行います。私が手配します』
さらりとそう言ってのけた二十代の美しい秘書を見て、丈一郎は「この子はただ者ではない」と改めてその能力に舌を巻き、深い信頼を寄せるようになったのである。
「あのPDSPのおかげで、いざという時の強力な『矛』が手に入りましたからね」
伸子がコンソールの画面を切り替えると、モニターに日本地図が表示された。
「そして、これがその矛の先を正確に導くための照準器……ですね」
地図上には、無数の点と、それを結ぶ線が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
「そう。ISAS開発の最終段階で私が付け加えた機能、『CDTSAS(Cross-Device Tracking and Spatial Analysis System)』だ」
丈一郎が誇らしげに言う。
特定のデバイス間の関係性や、情報のトラフィック(通信量)の密度を、地図上に視覚的に表示するシステムである。結ばれた線の「太さ」と「色」を見れば、どこで誰と誰が、どれだけ濃密な(あるいは怪しい)データのやり取りをしているかが一目でわかる。
「見てください、先生。この都心のエリア。赤い太い線が集中しています。グレードBの警告が出ていますね」
「ふむ。どうやら、どこかの悪党どもが、良からぬ相談を始めているらしいな」
公開情報の海を泳ぐISAS。 龍之介の遺産であるYDB。 そして、禁断の果実であるPDSPと、それを可視化するCDTSAS。 これらが完全に統合された「Camel System」は、間違いなく世界最強の情報空間管理システムであった。 しかし、これらの強大な機能は、一歩間違えれば史上最悪のディストピア兵器になり得る危険性もはらんでいる。
そのため、システムの起動、および個々の作戦実行における倫理的評価の「絶対的な拒否権」……通称『ベジタブル・スイッチ』は、すべて戦略家である高橋伸子が握っていた。
伸子がコンソールでNO(ロック)を出せば、たとえ開発者である丈一郎であってもシステムを動かすことはできない。
それは強大な矛をコントロールする、駱駝倶楽部の最重要の安全装置なのである。
「さてと」 伸子がキーボードから手を離し、背伸びをした。 「強力なシステムには、強力なブレーキが必要です。私が握っているこの『ベジタブル・スイッチ』の出番が来ないよう、先生にはくれぐれも安全運転をお願いしますよ」 「分かっているよ。君がストップをかけたら、このシステムはピクリとも動かなくなるんだからね」 丈一郎は肩をすくめて笑った。 表舞台では決して姿を現さず、情報空間 の 深淵からこの国を護り抜く。 二人の孤独で奇妙な、しかし決して負けられない戦いが、この静かなオペレーションルームから始まろうとしていた。
第5話 社会の歪み
2026年の6月。三田の安田邸の広大な庭には、色鮮やかで爽やかな初夏の景色が広がっていた。
元陸上自衛隊の特殊部隊に所属していたという屈強な体格の佐藤次郎が、朝から芝生の刈り込みや植木の手入れに精を出している。五月晴れの高い空から降り注ぐ陽光は心地よく、広大な敷地を吹き抜ける風には、初夏の草木の瑞々しい香りが混じっていた。
一階の厨房からは、次郎の母であり、この邸宅を40年も取り仕切ってきた家政婦のなみが夕食の仕込みをする、出汁のいい香りが漂ってくる。アメリカンスクールから帰ってきた六歳の少女、かなえの甲高い笑い声が、平和な午後の空気に溶け込んでいた。
そんな穏やかな日常の風景から完全に隔絶された、邸宅の二階。重厚なオーク材の扉の奥にある薄暗いオペレーションルームでは、小さくも、日本の未来を左右するかもしれない歴史的な歓声が上がっていた。
「伸子さん……ついに、ついに完成したよ!」
壁の三面を覆い尽くす巨大なモニターを見上げながら、安田丈一郎が感極まったような、震える声を上げた。普段は穏やかで落ち着き払っている彼が、まるで長年の夢を叶えた少年のように目を輝かせている。
東京大学を卒業後、アメリカのハーバード大学でMBAを取得し、その後西海岸の人工知能研究所に飛び込んだ若き日から、彼はずっとこのシステムの構想を温め続けてきた。最愛の妻を交通事故で失い、深い絶望の中で帰国した後も、そして偉大なる父・龍之介の死をきっかけに安田ホールディングスの副会長に就任した後も、彼が本当に心血を注いできたのは、この『Camel System』の開発だったのだ。
莫大な私財と、文字通り人生のすべてを懸けたシステムが、今、ついに彼の満足のいく形で完全なる完成を見たのである。
「おめでとうございます、先生。本当に、本当に長い道のりでしたね」
隣のコンソールに座る高橋伸子も、ふっと肩の力を抜いて、聡明で美しい顔に深い安堵の笑みを浮かべた。彼女自身、長年龍之介の秘書を務めた父・信介の遺志を継ぎ、丈一郎の秘書として、そしてこのシステムの「最高戦略責任者(CSO)」として伴走してきた。その苦労が報われた瞬間だった。
しかし、オックスフォード大学でメディア・コミュニケーション論と人工知能を修めた「知性の盾」である彼女は、すぐに表情をキリッと引き締め、手元のキーボードに視線を戻した。
「でも先生、ここで手放しで喜んでいてはいけません。システムが組み上がったからといって、いきなり実戦投入するわけにはいかないことは、おわかりですよね?」
「もちろんだとも。本格稼働の前に、十分なシミュレーションを行う必要がある。どんなに素晴らしい設計図を描いて精緻なコードを組んでも、実際に広大な情報空間を走らせてみなければわからないバグや歪みがあるはずだからね。それは私たち二人の共通認識だ」
丈一郎は深く頷き、温かいコーヒーの入ったマグカップを手に取った。
「では、シミュレーションの条件を確認します。今回はあくまで『システムの予測精度』を測るテストです。ですから、あの非合法の『PDSP(個人データスキャニングプログラム)』機能は除外します。よろしいですね?」
伸子が念を押すように言うと、丈一郎は苦笑いしながら肩をすくめた。
「わかっているよ、伸子さん。PDSPは、いざという国家の危機のための『矛』だ。日常のテストで使うような物騒な代物じゃない。それに、君の握る『ベジタブル・スイッチ』を発動させないためにも、今回は合法的な公開情報の収集と、YDBシステムの連携のみでシミュレーションを行おう」
「ええ。強力なシステムには、強力な倫理的ブレーキが必要です。この安全装置は、絶対に外せませんから」
伸子の瞳の奥には、亡き夫を戦場で失ったからこその「平和を力で維持する」という強烈なリアリズムと覚悟が宿っていた。
こうして、PDSP機能を封印した状態での、Camelの本格的なシミュレーションがスタートした。
それからの1週間、二人はオペレーションルームにこもりきりになり、画面に滝のように流れ込む世界中のニュース、SNSの書き込み、株価の変動、気象データといった膨大な公開情報を監視し続けた。それらの情報は、亡き龍之介の遺産である2200名から今や4000名規模にまで自動増殖した人脈データベース「YDB」と照合され、日本の骨格を揺るがすような「歪み」がないか、絶えず解析されていく。
「ふむ……今日も『グレードC』の予測が多いね」
ある日の午後、モニターを見つめながら丈一郎がつぶやいた。グレードCとは、情報の歪みから計算された近未来の危機的状況の「発生予測確率が30%以上」というレベルだ。
「そうですね。ネット上の些細な炎上騒ぎや、局地的な経済の小さな変動の兆し……。世の中は常にどこかで小さく歪んでいますが、概ね平和だということです。デフレ脱却と積極財政を阻むような大きな情報の動きは、今のところ見られません」
伸子が淀みなく答える。しかし、システムはただ平和な日常だけを映し出していたわけではなかった。1週間の稼働テストのうちに、数は少ないものの、確かに上位グレードの予測も検出されたのだ。発生予測確率50%以上の「グレードB」、そして、発生予測確率70%以上を示す、警告の赤色で表示される「グレードA」の案件である。
「さて、1週間のデータが揃いました。いよいよ答え合わせの時間ですね」
テスト期間が終了した日、伸子は少し緊張した面持ちで丈一郎を見た。
「ああ。ISASに、この1週間で弾き出した各グレードごとの予測について、実際にその予測通りに事象が発生したかどうか、確度の評価をさせよう」
丈一郎の指示を受け、伸子が軽やかにキーボードを叩き、実行キーのエンターをターン! と小気味よく押し込んだ。
巨大なメインモニターの中央に、集計中を示すプログレスバーが現れる。
二人は息を呑み、固唾をのんでそのバーが右端へ到達するのを見守った。オペレーションルームには、高性能な冷却ファンの低い駆動音だけが響いている。
やがて、ピローンという澄んだ電子音とともに、画面に最終的な評価レポートが表示された。
「……出ました。先生、結果です」
伸子の声が少しだけ上ずっている。
「どうだい? 私の、いや、私たちのISASは、見事に未来を言い当てたかな?」
画面に表示された数値は、次のようなものだった。
・グレードA(予測確率70%以上)の評価案件: 79%
・グレードB(予測確率50%以上)の評価案件: 48%
・グレードC(予測確率30%以上)の評価案件: 25%
「おお……!」
その数字を見た瞬間、丈一郎の口から感嘆の吐息が漏れた。
「凄いですよ、先生! グレードAは予測値の70%を上回る約8割の確率で的中。グレードBもほぼ50%に近い48%。グレードCは30%を下回る25%ですが、これは予測自体が広範でブレやすいことを考えれば、十分に許容範囲内の誤差です。全体として、ほぼ事前の予測設定通りの結果が出ていると言っていいでしょう」
伸子は興奮を抑えきれない様子で、パァッと花が咲いたような笑顔を見せた。
「ああ。ほぼほぼ……いや、大満足のいく結果だ。これなら、日本の未来を予測し、いざという時の防波堤として十分に機能させることができる。次世代の子供たちに強く豊かな日本を残すための、最強の盾と矛が手に入ったんだ。私たちのやってきたことは、決して間違っていなかった」
丈一郎は深くソファーに背中を預け、薄緑色のステンドグラスから差し込む光を見上げた。
亡き妻への鎮魂、そして父・龍之介から受け継いだ「国を護る」という重い使命。そのための強力な武器が、ついに実用段階に入ったのだ。
「これで心置きなく、次郎さんやなみさん、かなえたちと一緒に、美味しい夕食が食べられそうですね。今日は特別に、なみさんが腕によりをかけてくれていますよ」
伸子の優しい言葉に、丈一郎は「そうだね」と深く頷いた。
表舞台では決して姿を現さず、情報空間の深淵からこの国を護り抜く。二人の孤独で奇妙な、しかし決して負けられない戦いが、この静かなオペレーションルームからいよいよ本格的な幕を開けようとしていた。
第6話 「C_Flash」通知プロトコル
「先生、見事な成績ですね。これでISASのシミュレーションは完璧、文句のつけようがありません。いよいよ、次の段階へ移行ですね」
三田の安田邸の二階。薄緑色のステンドグラスを通して差し込む神秘的な光に包まれた、まるで宇宙船の司令室のようなオペレーションルーム。
コンソールのキーボードの上で流れるように踊っていた指を止め、高橋伸子がくるりと椅子を回して安田丈一郎の方を向いた。
二十八歳という若さながら、オックスフォード大学で培ったメディア・コミュニケーション論と人工知能の知識を兼ね備える彼女の聡明な瞳には、「知性の盾」としての静かな自信と頼もしさが宿っている。
「そうだね、伸子さん。社会の深刻な歪みを検知する能力については、申し分ないことが証明された。だが、問題はここからだ。私たちは警察でもなければ、正義のヒーローでもない。仮に深刻な事件や歪みを検知できたとしても、私たちが直接出向いて手を下すわけにはいかないからね」
丈一郎は、お気に入りのマグカップから温かいコーヒーを一口すすり、穏やかな声で答えた。
彼の表情には、長年の研究が結実した喜びと、これから始まる「闘い」への静かな覚悟が入り混じっていた。
「そこで出番となるのが、アメリカで非合法とされている『PDSP(個人データスキャニングプログラム)』の機能を、先生が独自に改修してISASに組み込んだ、あの新しい機能ですね?」
「その通り。名付けて『C_Flash(シー・フラッシュ)』通知プロトコルだ」
丈一郎は少し得意げに、少年のように目を輝かせた。
「従来のハッキングツールのように、相手 の データを盗み出したり、無駄な脅迫文を送りつけて相手をコントロールしたりするような、野蛮な真似はしない。ターゲットのデバイスを強制的にロックし、画面にはただ粛々と、本人が最も隠し通したかった事実……つまり、社会の歪みそのもの……を無言で提示するんだ」
「具体的で決定的な証拠物などのデータは、ISASがすべて把握していても、あえて通知には含めないんですよね?」
「そう。あくまで『ヒント』だけを知らせる。我々はただ事実を提示し、すべてを監視しているという無言の警告を与えるにとどめる。その通知を受け取ったターゲット自身が、自らの足と良心で証拠収集や取材等の行動を起こし、自分たちの力で歪みを解決へと導くように促すんだ」
「粋な計らいですね。まるで姿を見せない怪盗ルパンか、あしながおじさんみたいです。それに、通知の表示時間も自由にコントロールできるんでしたっけ?」
伸子が面白そうに身を乗り出す。
「ああ。状況や相手の心理的揺さぶりに応じて、画面のカウントダウン秒数を猶予なしの5秒『C_Flash005』から、じっくり読ませる180秒『C_Flash180』まで、5秒ごとに任意に設定できる。そしてタイムアップと同時に、通知は60秒で跡形もなく痕跡を残さずに消滅する仕組みだ。もし相手が通知を信じずに放置したとしても、最大3回まで段階的に再通知を送ることができる合理的な仕組みになっている。これなら、私たち『駱駝倶楽部』の存在に足がつく心配は絶対にない」
「ふふっ、完璧ですね。……あっ、先生! 早速ISASからレポートが上がってきましたよ。しかも、発生予測確率70パーセント以上の深刻な歪み、『カテゴリーA』の案件です!」
伸子の顔つきが、スッとプロの戦略家のそれに切り替わった。
「ほう、カテゴリーAか。システムが本格稼働して早々の大物だね。何が出たんだい?」
丈一郎がマグカップを置き、モニターを見上げる。
「これは……2022年6月29日に、大分県別府市で起きた凄惨なひき逃げ事件です。全国で初めて『道路交通法違反ひき逃げ容疑』で重要指名手配され、その後、殺人と殺人未遂容疑まで追加された男、屋島賢一。未解決のまま、もう5年目を迎えようとしているあの事件ですよ」
三面を覆う巨大なメインモニターに、鋭い目つきをした男の顔写真と、これまでの捜査の概要がデカデカと表示された。
「ああ、ニュースでよくやっていたね。たしか、事件直後に車内にスマートフォンや財布などを残したまま、裸足で現場から逃走したという男だったかな。約2キロ離れたヨットハーバー付近で、プツリと足取りが途絶えてしまった……」
「はい。4月末時点での集計では、大分県警に寄せられた情報提供はなんと1万2747件にも上っています。特に関東地方での目撃情報が最多を占めているため、警察の捜査網は今や全国規模へと拡大しているんですが……全く尻尾を掴ませていません」
「なるほど。5年近くも全国指名手配を逃れ続けるとは、並の悪党じゃないな。なぜ警察は捕まえられないんだい?」
「屋島に限らず、現代において指名手配犯がこれほど長期にわたる逃亡を継続するためには、ひとつの『絶対条件』があるんです」
伸子はキーボードを叩き、モニターに現代社会のネットワークの図解を表示させた。
「それは、『現金のみ生活スタイル』の構築と、その徹底です」
「現金のみ、か」
「ええ。現代社会において、我々の行動はデジタルの足跡によって克明に記録され続けています。クレジットカードの利用履歴、交通系ICカードの乗降記録、そして何より、スマートフォンの微弱な電波……。これらは普通に暮らしている分には便利なツールですが、いざ追われる身となれば、刑事がホシを追い詰めるための『不可視の鎖』へと変貌するんです」
伸子の解説に、丈一郎は深く頷いた。
「屋島はそれを熟知している。だからこそ、事件直後にあえてスマホや財布を車に残して逃走した。その後もデジタルデバイスを一切持たず、痕跡の残らない現金だけで暮らしている。警察の捜査が難航しているのも当然ですよ。デジタルの網の目をすり抜ける、いわば『透明人間』になっているんですから」
「見事なステルス生活というわけだ。しかし、いくら透明人間を気取っても、完全に社会との関わりを断って生きていくことはできない。で、我らがISASは、その透明人間の痕跡を、日本のどこで見つけ出したんだい?」
丈一郎が目を細めて尋ねると、伸子はふっと口角を上げた。
「沖縄県の、本部町(もとぶちょう)です」
伸子がエンターキーを叩くと、モニターの日本地図が一気に南の島へとズームインした。美しい海と緑に囲まれた本部町の風景が映し出される。
「沖縄の本部町? 大分からずいぶんと遠くまで飛んだものだ」
「ISASが収集した膨大な公開情報の中に、本部町の昔からの夏祭りのニュース映像がありました。その映像の端に、ほんの一瞬だけ映り込んだ男の顔を、ISASの顔認証システムが見逃しませんでした。公開捜査で使用されている屋島賢一の顔写真と、骨格や目元の特徴が一致したんです」
「ほう、映像の端の一瞬を……。人間の目では絶対に見落とすレベルだな」
「それだけじゃありません。ISASはさらに点と点を線で繋ぎました。本部町役場のホームページにあった、『夏祭りに本土からの移住者がたくさん参加して、祭りが10年ぶりに復活した』という特集記事。その中に、移住者の『移住元県名』と『移住年』のリストが掲載されていたんです」
画面には、役場ののどかなホームページのスクリーンショットが表示されている。
「事件の発生からちょうど1年後の移住で、しかも移住元県名が『大分県』となっている人物が、リストの中に一人だけ存在していました。ISASは、このわずかな情報空間の『歪み』を完璧に捉えたんです」
「素晴らしい。完璧な推理だ。顔認証と状況証拠がピタリと一致したわけだね。……しかし伸子さん、この貴重な情報を、どこに、どうやって通知する?」
丈一郎は顎を撫でながら思案顔になった。
「直接警察のタレコミ窓口に『C_Flash』を送りつけるかい? いや、それは得策じゃないな。イタズラやサイバー攻撃だと警戒されて、かえって情報が握り潰されるのがオチだ」
「ええ、私もそう思います。通知を受け取る相手は、この情報に直接関わりがあり、かつ自分自身で行動を起こせる立場の人間でなければなりません」
二人はモニターを見つめながら、じっくりと検討を重ねた。
やがて、伸子の目がパッと輝いた。
「先生、これです! 本部町役場のホームページの中に、この記事を作成した『広報課』の連絡先があります。そしてそこに、公用の『携帯電話番号』が掲載されていますよ!」
「役場の広報課の携帯電話か。……これだ!」
丈一郎もポンと手を打った。
「役場の職員なら、地域の情報に明るいはずですし、警察への連絡もスムーズに行える立場です。何より、自分の町に凶悪犯が潜伏しているかもしれないとなれば、無視することはできないでしょう。さっそく、この番号宛に『C_Flash』の通知プロトコルを使うことを決定しましょう」
「よし。通知の表示時間はどうする?」
「相手は一般の役場職員です。パニックにならないよう、少し長めに時間を取ってあげましょう。『C_Flash60』……60秒間の表示でいきます」
「了解した。……では伸子さん、君が握っている『ベジタブル・スイッチ』のロックを解除してくれ。いよいよ、我らがCamelの初陣だ」
丈一郎の言葉に、伸子は深く頷き、コンソールのセーフティカバーを開けた。
「『ベジタブル・スイッチ』、ロック解除(NOロック解除)。倫理的評価、クリア。……ターゲットの公用スマートフォンへ、シー・フラッシュ、送信します!」
伸子が静かな闘志を込めて、実行キーであるエンターをターン! と小気味よく押し込んだ。
日本を陰から護る「駱駝倶楽部」の放った最初の一矢が、目に見えない情報空間を駆け抜け、遥か南の島へと飛んでいった。
「送信完了。GRT-System(ジオ・リレーション・追跡システム)、ターゲットデバイスの空間捕捉を維持。パケットの到達を確認しました。現在、対象のデバイスは完全にサイレント・ロック状態に入っています」
伸子がコンソールに滝のように流れる緑色の文字列を目で追いながら、確実かつ迅速に状況を報告する。
「ご苦労様、伸子さん。これで我々の『C_Flash60』が、本部町役場の広報課担当者の手元で、静かに、しかし確実に牙を剥いているはずだ」
丈一郎は、ソファーの背もたれに深く寄りかかり、安堵の息を長く吐き出した。
「それにしても先生、この『C_Flash』のプロトコルは本当にエレガントですね」
伸子がキーボードから手を休め、三面モニターに映し出された屋島賢一の鋭い目つきの顔写真を改めて見上げた。
「従来のランサムウェアやハッキングのように、相手のデータを人質に取ったり、デバイスのフラッシュメモリを物理的に焼き切る『強制システムイニシャライズ』のような野蛮な真似はしない。ただ真っ暗な画面に、60秒間だけ、本人が最も知るべき『事実』を浮かび上がらせる。しかも、具体的な証拠は一切添付しないという徹底ぶりです」
「ああ。我々はあくまで『ヒント』を与えるだけだ。指名手配犯が本部町にいるかもしれないという事実。それ以上の証拠、例えばISASが特定した顔認証のデータや、移住者のリストといった具体的な情報は、一切送らない。なぜなら、それをしてしまえば、我々が『どこからその情報を得たのか』という不要な詮索を生むからね」
丈一郎はマグカップの残りのコーヒーを飲み干し、静かな声で続けた。
「通知を受け取ったターゲットが、その『ヒント』を元にして、自らの足で調べ、証拠を集め、警察に通報する。それが一番自然で、かつ誰も傷つかない解決方法なんだよ。我々はただ、情報空間の歪みを検知し、その解決への『最初のひと押し』をするだけの存在でいい」
「でも先生」と、伸子が少し意地悪そうに微笑んだ。
「相手は一般の役場職員ですよ。突然仕事用のスマホがフリーズして、謎のメッセージが浮かび上がってきたら、普通は『熱暴走か、タチの悪いスパムだろう』と思って無視するんじゃないですか?」
「もちろん、その可能性は高い。だからこそ、ISASには『合理的判断に基づく複数回通知』の機能を持たせてある」
「ああ、あの段階的再通知のシステムですね」
「その通り。今回送信した『C_Flash60』の後、ターゲットが警察に通報するなどの『想定された正しい行動』をとるかどうかを、ISASのサイレント・モニター機能が継続して監視する。もし数時間経ってもアクションがなければ、2回目の通知を送る。それでもダメなら3回目だ」
「なるほど。1回目はイタズラだと思っても、時間をおいて全く同じ不気味な通知が2回、3回と来れば、嫌でも記憶に刻み込まれますからね。『屋島賢一』という名前をネットで検索くらいはするでしょうし、自分の町に凶悪犯がいるかもしれないとなれば、広報担当として無視し続けることは心理的に難しくなります」
「基本的にはそういうことだ。ただし、3回送り続けても相手が動かなかった場合は、そこで終了だ。それ以上執拗に追及することはしない。それが『駱駝倶楽部』の鉄則だからね。あくまで、行動するかどうかは本人の良心と勇気に委ねる」
丈一郎の言葉には、長年システムと向き合い、人間の心理をも深く洞察してきた者特有の重みがあった。
「わかりました。……それにしても、この屋島という男、本当に許せませんね」
伸子の視線が、再びモニターの屋島に向かった。その瞳の奥には、亡き夫を戦場という理不尽な暴力で失った彼女だからこそ抱く、犯罪に対する強い義憤の炎が揺らめいていた。
「2022年6月に大分県別府市で起こした凄惨なひき逃げ。全国で初めて『道路交通法違反ひき逃げ容疑』で重要指名手配され、殺人と殺人未遂容疑まで追加された極悪人です。車内にスマホも財布も残したまま裸足で逃走し、その後5年近くも『現金のみ生活スタイル』を徹底して警察の目を欺き続けてきた……。彼がデジタルの足跡を一切残さない『透明人間』になれたのも、現代社会の網の目を熟知した狡猾さの表れです」
「そうだね。現代社会において、クレジットカードも交通系ICカードも、スマートフォンすら持たずに生活し続けるというのは、並大抵の覚悟と執念ではできない。彼は自分が追われる身であることを片時も忘れず、自らに『不可視の鎖』が巻き付くのを徹底的に避けてきたのだろう。だが……」
丈一郎はそこで言葉を区切り、窓の薄緑色のステンドグラス越しに外の初夏の空を見上げた。
「どんなにデジタルを遠ざけても、社会の中で生きていく以上、完全に人間関係の網の目から逃れることはできない。本部町の夏祭りに参加し、町役場のホームページに『移住者』として記録される。そして、祭りのニュース映像の片隅に、ほんの一瞬だけ顔が映り込む……。ISASの『深層観察(ディープ・オブザベーション)』機能は、その人間社会の営みが生み出す、ほんのわずかな『目飛び』を絶対に見逃さない」
「ええ。今回、ISASが本部町の役場ホームページとニュース映像をリンクさせ、屋島の存在をあぶり出したプロセスは、まさに芸術的でした。先生が長年心血を注いできたこのシステムが、どれほど強大な力を持っているか、改めて証明された思いです」
伸子は誇らしげに胸を張った。
「さて、あとは果報は寝て待て、だ。ISASの監視を継続したまま、私たちは日常に戻ろうじゃないか。そろそろ、なみさんが美味しい昼食の用意をしてくれている頃合いだ」
丈一郎がゆっくりと立ち上がり、凝り固まった肩を回す。
「ふふっ、そうですね。今日のメニューは、次郎さんが庭の畑で採ってきてくれた新鮮な初夏野菜を使ったカレーらしいですよ。先生、徹夜明けには少し重いかもしれませんが、食べられますか?」
「ははは、なみさんのカレーなら大歓迎さ。かなえちゃんもきっと喜ぶだろう。それに、今日は我が『Camel』の初陣を祝って、特別に美味しく感じるだろうからね」
薄緑色の光に包まれたオペレーションルームの静寂の中、巨大なモニターには依然として日本の地図が表示され、南の果ての小さな町に向かって、目に見えない無数のデータの波が静かに打ち寄せていた。
日本を陰から護る「駱駝倶楽部」の孤独で奇妙な闘いは、いま確かに、その最初の一歩を踏み出したのである。
第7話 沖縄県本部町役場
東京・三田の安田邸から、目に見えない無数のデータが情報空間を駆け抜け、遥か南の島へと到達したまさにその頃。
沖縄県の本島北部に位置する本部町(もとぶちょう)。美しいエメラルドグリーンの海と、豊かな緑に囲まれたこののどかな町は、初夏ともなれば突き抜けるような青空と強い日差しに包まれる。
山間部にある小さな農園では、本部町役場の広報課で働く島袋道子(しまぶくろ みちこ)が、額に滲む汗をハンカチで拭いながら、メモ帳に向かって懸命にペンを走らせていた。
「へえー! 沖縄でもこんなに本格的なコーヒー栽培が始まってるんですねえ。知りませんでした。これなら次号の広報誌の目玉記事になりますよ、絶対に!」
道子が目を輝かせて言うと、日焼けした顔に深いシワを刻んだ農園主のおじいが、照れくさそうに「はっはっは」と豪快に笑った。
「いやあ、道子さんにそう言ってもらえると嬉しいねえ。若い人たちが本土から移住してきて手伝ってくれるようになってから、いろんな新しい試みができるようになったんさ。道子さんも一口飲んでみるね? 挽きたては香りが違うよ」
最近、本部町では本土からの移住者が増えたこともあり、町民から「うちの新しい取り組みを取材してください」「今度のイベントを広報誌に載せてほしい」という熱心な売り込みの電話が増えていた。広報課の若手エース(と自分で勝手に思っている)道子は、毎日カメラとメモ帳を片手に、町中を東奔西走する忙しい日々を送っていたのだ。
「いただきます! ……わあ、本当だ。すっごくいい香り! 酸味が少なくて飲みやすいですねえ」
道子が淹れたてのコーヒーを一口すすり、至福の表情を浮かべたその時だった。
ブルブルブルブルブルッ!!
肩から斜め掛けにしていたポーチの中で、仕事用の公用スマートフォンが、突然、狂ったように激しく震え出した。バイブレーションの振動がポーチ越しに脇腹に伝わり、道子は「ひゃっ」と小さく飛び上がった。
「あ、すいませんおじい。ちょっと電話みたいで……また役場からの呼び出しかも」
道子は苦笑いしながら農園主に断りを入れ、ポーチのジッパーを開けてスマホを取り出した。
「あれ……?」
画面を見て、道子は首を傾げた。
着信を知らせる画面が表示されているはずなのに、スマホのディスプレイは電源が切れたように真っ黒だったのだ。
「おかしいな。バッテリーは朝、フル充電してきたはずなんだけど……」
画面を何度かタップしたり、横の電源ボタンを押したりしてみたが、スマホはうんともすうんとも言わない。ただ、相変わらず手の中でブルブルと小刻みに震え続けている。
「熱暴走かな? 今日は日差しが強いし、ずっとポーチの中に入れっぱなしだったから……」
道子がスマホの裏面を手のひらでパタパタとあおぎ、もう一度画面を覗き込んだその瞬間。
真っ暗なディスプレイの奥底から、少し震えるような不気味な黄色い文字が、まるで深海から浮かび上がってくるようにフワッと現れた。
『C_Flash60 指名手配中の屋島賢一が本部町に潜伏している可能性あり 警察に連絡されたし(この通知は60秒で消滅します)』
「えっ……?」
道子は目を丸くした。思わず息を呑む。
メールアプリの画面でもなければ、LINEのようなメッセージアプリの画面でもない。ただの真っ黒な背景に、明朝体の黄色い文字だけが全画面に表示されている。見たこともない、いや、スマートフォンの通常の機能には存在しないはずの異常な表示だった。
「な、何これ? 『指名手配中の屋島賢一』……?」
どこかで聞いたことがある名前だ、と道子の脳裏の片隅でアラートが鳴った。ニュースでよく顔写真が出ている、あの凶悪なひき逃げ犯だ。それがこの町に潜伏している?
「だ、だれから送られてきたの!?」
道子は慌てて画面の上部をスワイプして通知バーを引き出そうとしたが、指の動きに全く反応しない。ホームボタンを連打しても、戻るボタンを押しても、スマホは黄色い文字を残したまま完全にフリーズしており、ピクリとも動かなかった。ただ、右下の隅で「58、57、56……」と、秒数らしき数字だけが静かにカウントダウンを刻んでいる。
「ちょっと、どうなってるのこれ! 誰かのイタズラ? それともウイルス!?」
道子がパニックになりかけていると、カウントダウンの数字がついに「00」を示した。
その瞬間、画面の黄色い文字はスーッと薄暗い煙のように消え去り、何事もなかったかのように、見慣れた町役場のマスコットキャラクターの待ち受け画面に戻ったのである。
「……消えた」
道子は急いでメッセージアプリや着信履歴、さらにはSNSのダイレクトメッセージまでありとあらゆるアプリを開いて確認してみた。しかし、たった今見たあの奇妙な「C_Flash60」という通知の痕跡は、どこにも残っていなかった。完全に、文字通り「跡形もなく」消滅してしまったのだ。
「……何だったの、今の。白昼夢?」
「道子さーん! こっちの新しい焙煎機も見とくれよ! こいつがまた、いい仕事するんだわ!」
少し離れたビニールハウスの中から、農園主の明るい声が響いた。
「あ、はい! 今行きます!」
道子は首を傾げながらもスマホをポーチにしまい、目の前の取材の忙しさに引き戻されていった。「まあ、役場の公用スマホに新種のスパムメールでも届いたんでしょ。帰ったら情報システム課に文句言わなきゃ」
そう自分を納得させると、道子はあの不気味な通知のことを、すっかり頭の片隅へと追いやってしまったのだった。
それから数時間後。
すっかり日も傾きかけた頃、取材を終えて役場に戻ってきた道子は、自動販売機で買った冷たい缶コーヒーをプシュッと開け、自分のデスクにどっこいしょと腰を下ろした。
「ふうー、疲れたあ。でも、今日のコーヒー農園の記事はバッチリ書けそう。来月号のトップ記事はこれで決まりね」
パソコンを立ち上げ、デジカメの画像を取り込みながら、缶コーヒーをグビッと飲む。冷たい液体が喉を通り抜けていくと、少しだけホッと一息つくことができた。
その時である。
「……あ」
デスクの横に置いた公用のスマートフォンが目に入り、道子は昼間に農園で現れた、あの奇妙な通知メッセージのことをハッと思い出した。
『C_Flash60 指名手配中の屋島賢一が本部町に潜伏している可能性あり 警察に連絡されたし』
「……屋島賢一。たしか、5年くらい前に大分で起きたひき逃げ事件の犯人よね。車置いたまま逃げて、その後殺人容疑もかかってるっていう……」
道子はパソコンのブラウザを開き、検索窓に「屋島賢一」と打ち込んでみた。すぐに警察庁の指名手配犯のページがヒットし、あの鋭い目つきの男の顔写真が画面に大写しになった。
「うわっ、やっぱりこの人だ。……でも、なんで私の仕事用のスマホに、あんな怪文書みたいなメッセージが届いたんだろう?」
誰かのタチの悪いイタズラかもしれない。あるいは、最近流行りの新手の詐欺かもしれない。しかし、万が一、億が一、あのメッセージが真実だとしたら……? この平和でのどかな本部町に、こんな凶悪犯が潜伏しているかもしれないのだ。
「イタズラならイタズラでいいわ。後で後悔するより、とにかく念のため警察に電話だけしておこう」
道子は決心し、デスクの横にある固定電話の受話器に手を伸ばした。地元の警察署の番号をプッシュしようと、人差し指を構えたその時だった。
「島袋さーん! ちょっとお願い!!」
フロアの向こう側から、先輩職員の切羽詰まった声が飛んできた。
「えっ、はい! なんですか!?」
「先週発行した広報誌の『町民大運動会』のページ! 第3町内会の会長さんの名前の漢字、間違ってるって、本人からものすごい剣幕のクレームの電話が入ってるの! 今すぐ代わって平謝りして!!」
「えええええっ!? 嘘でしょ、ちゃんと校正したはずなのに……!」
警察への電話どころではなくなってしまった道子は、受話器を奪い取るようにしてクレーム対応に飛びついた。
「あ、はい! 広報課の島袋です! この度は誠に申し訳ございません! 完全に私どもの確認不足でして……ええ、はい、おっしゃる通りでございます……!」
そこからたっぷり30分。道子は受話器を耳に押し当てたまま、ひたすらペコペコと頭を下げ続け、理不尽な怒りに燃える町内会長の説教に耐え忍ぶことになったのである。
「……はい、誠に申し訳ございませんでした。次号の広報誌で、お詫びと訂正を必ず掲載いたします。……はい、失礼いたします」
ようやく受話器をガチャンと置き、道子は自分のデスクにぐったりと突っ伏した。
「ああ、もう嫌。疲れたあ……。私だって一生懸命やってるのに」
時計を見ると、たった一件のクレーム対応だけで、たっぷり30分も時間を取られていた。すっかり冷え切ってしまった缶コーヒーを恨めしそうに見つめる。
精根尽き果てた彼女の横で、再びポーチの中の公用スマートフォンが、けたたましく震え始めた。
ブルブルブルブルブルッ!!
「えっ、また!?」
バイブレーションの激しい振動に心臓をビクッと跳ねさせた道子は、恐る恐るスマホを取り出した。
画面はやはり真っ黒だ。そして、先ほどと全く同じように、暗闇の底から不気味な黄色い明朝体の文字が、ゆっくりと浮かび上がってきたのである。
『C_Flash60 指名手配中の屋島賢一が本部町に潜伏している可能性あり 警察に連絡されたし(この通知は60秒で消滅します)』
「まただ……! 全く同じメッセージ!」
道子は息を呑んだ。
右下の隅では、前回と同様に「59、58、57……」と無機質なカウントダウンが静かに始まっている。
2回目ともなると、さすがに「ただの熱暴走」や「イタズラメール」と一蹴することはできなかった。「屋島賢一」という、ニュースで何度も見た凶悪な指名手配犯の名前が、道子の心に深く、はっきりと刻み込まれたのだ。
「こんなのどかな田舎町に、あのひき逃げ犯がいる……? もしかして、さっき農園で会った本土からの移住者の中に……?」
想像しただけで背筋が寒くなり、腕に鳥肌が立った。
もしこれが本当だとしたら、町の人たち、あの優しい農園のおじいにも危険が及ぶかもしれない。広報課の職員として、いや、この町を愛する一人の人間として、これを見過ごすわけにはいかない。
カウントダウンが「20」を切った。
「ええい、怒られたっていいわ! 後でイタズラだったって笑い話にすれば済むことだし!」
道子は意を決し、受話器を勢いよく持ち上げると、地元の警察署の番号を一気にプッシュした。
「あ、もしもし! 本部町役場広報課の島袋ですが! あの、指名手配犯の屋島賢一らしき人物が、この町にいるかもしれなくて……!」
道子の切羽詰まった声は、夕暮れ時の静かな役場のフロアに、少しだけ大きく響き渡った。スマホの怪奇現象のようなメッセージのことなど、正直に話しても警察に信じてもらえるわけがない。「何で気がついたんですか」と問われた彼女は、とっさに嘘をついた。
「実は先日、出張で那覇に行ったとき、国際通りの派出所の掲示板に貼ってあった黄色く色褪せた手配ポスターを見たんです。それで、町内のコーヒー農園で働いている本土からの移住者にそっくりだと気がついて……」
それから、2日後のこと。
東京・三田の安田邸。一階の広々とした食堂では、家政婦のなみが作る出汁の効いた和食のいい香りが漂っていた。
「んふー、おいしい! なみおばあちゃんの卵焼き、今日もあまい!」
六歳の少女、かなえが口の周りにご飯粒をつけながら嬉しそうに笑っている。
そんないつもと変わらない平和な朝の風景の中、壁掛けの大型テレビから、アナウンサーの少し興奮気味な声が流れてきた。
『……続いてのニュースをお伝えします。2022年に大分県別府市で起きた凄惨なひき逃げ事件などで重要指名手配されていた、屋島賢一容疑者が、先ほど沖縄県本部町で逮捕されました。』
画面には、本部警察署からパトカーに乗せられる、少し日に焼けた屋島容疑者の姿が映し出されている。
『警察によりますと、逮捕の決め手となったのは、本部町役場広報課の職員からの通報でした。この職員は、「出張で那覇を訪れた際、国際通りの派出所の掲示板で色褪せた手配ポスターを見て、町内の農園で働く男に似ていると気がついた」と説明しているとのことです。その情報をもとに警察が急行して内偵を進めたところ、町内のコーヒー農園で偽名を使って働いていた屋島容疑者を発見し、身柄を確保したということです……』
「やりましたね、先生!」
ソファーに座ってニュースを見ていた高橋伸子が、手元のタブレットから顔を上げ、満面の笑みで安田丈一郎を振り返った。
「お手柄ですよ、役場の広報課の職員さん。きっと、あの『C_Flash』の2回目の通知を見て、勇気を出して行動してくれたんですね」
「ああ。私たちの『Camel-System』が、初めて社会の歪みを正した、記念すべき歴史的な瞬間だ」
丈一郎も、深く皺の刻まれた目尻を下げて、穏やかに微笑んだ。
「でも、ニュースでは『那覇の国際通りの派出所で色褪せた指名手配ポスターを見て気がついた』なんて言ってますね。スマホの奇妙な通知のことには一切触れず、警察が納得しやすい理由を機転を利かせて説明してくれたみたいですね」
伸子がクスッと笑いながら、タブレットを操作する。
「彼女の公用スマホには、何の痕跡も残っていないはずだからね。ISASの『C_Flash』については一切口外しない。それこそが我々の望む形だ。警察のサイバー犯罪対策課がいくら調べたところで、捜査の端緒すら掴めない。我々『駱駝倶楽部』の存在に足がつくことは絶対にないわけだ」
丈一郎は温かいお茶を一口すすり、満足げにテレビ画面を見上げた。
自分たちの名前が表に出ることは決してない。誰に褒められることも、直接感謝されることもない。
それでも、この国を蝕む歪みを一つ、見事に消し去ることができたのだ。
父・龍之介が残した、今や四千名規模に成長した人脈データベース「YDB」、丈一郎が人生を懸けて開発した「ISAS」、そして非合法の禁断のプログラム「PDSP」。これらが完全に統合された「Camel System」は、間違いなく日本の未来を護る最強の盾と矛として機能したのである。
「最初のシミュレーションとしては、100点満点といったところかな」
「ええ。ですが先生、喜んでばかりもいられませんよ。世の中にはまだまだ、目に見えない歪みがたくさん潜んでいるんですから」
伸子が、わざとらしくキリッとした表情を作ってみせる。
「わかっているよ、伸子さん。私たちの孤独で奇妙な闘いは、まだ始まったばかりだ。これからも、君の握る『ベジタブル・スイッチ』と、その聡明なサポートを頼りにしているよ」
「はい。先生のことは、私が全力でお守りします」
初夏のまぶしい陽光が差し込む安田邸の食堂で、日本を陰から護る「駱駝倶楽部」の二人は、初めての功績を静かに祝い合った。
その顔には、次なる闘いに向けた静かな覚悟と、揺るぎない自信が満ち溢れていた。
(砂漠の針、青い海の逃亡者 完)


